本薬師寺跡と山田寺跡|皇后の祈りと悲劇の宰相が遺した仏教の記憶

奈良。時々京都。

皇后の病気平癒を願って生まれた本薬師寺と、悲劇の宰相・蘇我倉山田石川麻呂が遺構下山田寺。二つの寺院跡から、飛鳥に根づいた仏教と人々の祈りをたどります。

前回は、極彩色の壁画で知られる高松塚古墳とキトラ古墳を訪ね、古代の人々が死者に何を託したのかを見つめました。

今回は少し視点を変えて、飛鳥・藤原の地に仏教という新しい信仰がどのように根づいていったのかを、二つの寺院跡からたどってみたいと思います。

訪ねるのは、本薬師寺跡(構成遺産18番)と山田寺跡(構成遺産7番)

どちらも、かつての壮麗な堂塔は残っていません。

けれど、静かな礎石や地中から発見された建築部材をたどっていくと、そこから二つの「祈り」が見えてきます。

一つは、病に倒れた皇后を思う天皇の祈り。

もう一つは、激しい権力争いの中で命を落とした一人の男と、その一族が遺した祈り。

仏教が国家と人々の間に深く根を下ろしていった時代へ、少し戻ってみましょう。

本薬師寺−−皇后の病気平癒を願って

本薬師寺跡は、奈良県橿原市城殿町にある特別史跡です。

『日本書紀』によれば、天武天皇(第40代)は天武9年(680年)、皇后――のちの持統天皇(第41代)の病気平癒を願い、薬師如来を本尊とする寺の建立を発願しました。

寺の名が「薬師寺」であることも、その祈りと深く結びついています。

ところが、天武天皇は寺の完成を見ることなく686年に崩御します。

その遺志を受け継いだのが持統天皇でした。

持統2年(688年)には薬師寺で無遮大会が行われ、文武2年(698年)には伽藍がほぼ完成したと記録されています。

一人の皇后の病を癒やしたい。

その切実な願いから始まった寺は、やがて藤原京を代表する大寺院へと成長していったのです。

史跡 本薬師寺

東西二つの塔が並んだ大伽藍

本薬師寺の大きな特徴は、金堂の前方に東塔と西塔という二つの塔を配置した伽藍です。

のちに奈良市西ノ京の薬師寺にも受け継がれる、壮麗な双塔式の伽藍でした。

現在は建物こそありませんが、金堂跡や東西両塔跡には土壇や礎石が残されています。

建物がないからこそ、礎石の位置を目で追いながら、

「ここに金堂があり、その前に二つの塔がそびえていたのか」

と想像してみる。

史跡を歩く楽しさは、案外こういうところにあるのかもしれません。

本薬師寺は飛鳥寺・川原寺・大官大寺とともに、藤原京を代表する四大寺の一つに数えられました。

個人的な祈りから始まった寺が、いつしか国家的な仏教行事を担う大寺院となっていったことになります。

薬師寺は奈良へ「引っ越した」のか

710年、都は藤原京から平城京へ移ります。

現在、奈良市西ノ京にある薬師寺は、この本薬師寺を前身としています。

そこで長年議論されてきたのが、

本薬師寺の建物を、そのまま平城京へ移したのか。

それとも平城京で新しく造ったのか。

という問題です。

後世の『薬師寺縁起』には、養老2年(718年)に伽藍を移したとする記録があります。

しかし、発掘調査が進むにつれて、本薬師寺と平城京薬師寺には構造上の違いがあることなどが分かってきました。

さらに本薬師寺からは奈良時代から平安時代にかけての瓦も見つかっています。

つまり平城京に薬師寺が造られたあとも、本薬師寺の建物は修理されながら存続していたと考えられるのです。

現在では、平城京の薬師寺は本薬師寺の伽藍を受け継ぎながらも、新たに造営されたとする見方が有力になっています。

礎石だけになった本薬師寺跡ですが、その下には、こんな長い論争まで眠っていました。

山田寺跡−蘇我倉山田石川麻呂の寺

本薬師寺とはまた違う物語を持つのが、桜井市山田にある山田寺跡です。

山田寺の造営を始めたのは、蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂。

舒明13年(641年)、一族の氏寺として建立に着手したとされています。

石川麻呂は、蘇我氏の一族でありながら、皇極4年(645年)の乙巳の変では中大兄皇子側に立ち、蘇我入鹿打倒に協力しました。

その後、右大臣となり、新しい政治を担う中心人物の一人になります。

ところが、その栄華は長く続きません。

山田寺跡

金堂で迎えた悲劇

大化5年(649年)。

石川麻呂は謀反の疑いをかけられました。

追われた彼が最後に向かったのが、まだ造営途中だった山田寺でした。

そして金堂で、一族とともに命を絶ちます。

自ら建立を始めた寺が、最後の場所になってしまったのです。

のちに謀反の疑いは事実ではなかったことが明らかになったと伝えられています。

山田寺の跡を歩くとき、この出来事を知っているかどうかで、目の前の風景は少し違って見えるのではないでしょうか。

造営は一時中断しますが、その後、皇室の支援を受けて再開されます。

天武5年(676年)には塔が完成し、天武14年(685年)には丈六仏の開眼が行われました。

発願者がいなくなったあとも、寺は造り続けられたのです。

土の中から現れた古代の回廊

山田寺跡を考えるうえで欠かせないのが、1982年から始まった東回廊の発見です。

発掘を進めると、倒壊した古代の回廊が、その姿をとどめたまま土の中から現れました。

柱や連子窓などの木材が、倒れた状態のまま残されていたのです。

7世紀に造られた木造寺院建築の姿を具体的に知ることのできる、きわめて貴重な発見でした。

現存する世界最古級の木造建築として知られる法隆寺西院伽藍よりも古い時期の建築部材です。

出土した部材は長い年月をかけて保存処理され、その一部は現在、飛鳥資料館で本来の位置関係に組み直して展示されています。

礎石から建物を想像する本薬師寺。

そして、土の中から実際の木材が蘇った山田寺。

二つの寺院跡を続けて見ると、「遺跡の残り方にも、こんなに違いがあるのか」と気づかされます。

山田寺の仏は、なぜ興福寺にいるのか

山田寺の物語には、さらに驚くような後日談があります。

文治3年(1187年)。

興福寺の僧たちが山田寺の薬師三尊像を持ち去り、興福寺東金堂の本尊として安置したと伝えられています。

飛鳥の山田寺にいた仏が、奈良の興福寺へ移ってしまったのです。

その後、応永18年(1411年)に東金堂は火災に遭い、仏像も失われたと思われていました。

ところが――。

昭和12年(1937年)、東金堂本尊の台座を修理していたところ、その内部から焼け残った仏像の頭部が発見されました。

現在、興福寺国宝館で見ることのできる国宝「銅造仏頭」――山田寺仏頭です。

丸みを帯びた顔。

静かな眼差し。

白鳳彫刻を代表する仏像として知られています。

山田寺で生まれ、興福寺へ渡り、火災に遭い、それでも頭部だけが残った。

私はこの仏頭を見ると、単なる美術品というより、一体の仏像が千年以上かけて歩いてきた「時間」を見ているような気がします。

完寺と氏寺−−二つの祈り

本薬師寺と山田寺。

同じ仏教寺院でありながら、その出発点は大きく違いました。

本薬師寺は、天武天皇が皇后の病気平癒を願って発願し、やがて国家的な大寺院となりました。

一方、山田寺は蘇我倉山田石川麻呂が一族のために建立を始めた氏寺でした。

しかし発願者は政争の中で命を失い、その寺は皇室の援助によって完成へ向かいます。

皇后を思う祈り。

一族を思う祈り。

そして国家を支える祈り。

飛鳥・藤原の時代に仏教が広がっていった背景には、単に「新しい宗教が伝来した」というだけでは説明できない、人々のさまざまな願いがあったのでしょう。

元薬師寺跡

礎石の向こうに残るもの

現在、本薬師寺跡にも山田寺跡にも、かつての華やかな堂塔はありません。

本薬師寺では、金堂や東西両塔の礎石が残り、かつての壮大な伽藍を想像させます。

山田寺では、地上の建物こそ失われましたが、土の中から古代の回廊そのものが姿を現しました。

目に見える礎石が語る歴史。

地中から蘇った木材が語る歴史。

そして、その向こうには人の祈りがあります。

天武天皇が病に苦しむ皇后を思った祈り。

石川麻呂が自らの氏寺に託した思い。

千年以上の時間が過ぎ、建物がなくなっても、そうした人の思いまで消えてしまうわけではないのかもしれません。

2026年、本薬師寺跡と山田寺跡は「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産として世界遺産になりました。

世界遺産になったから価値が生まれたのではありません。

長い年月、この土地に残され、守られ、研究されてきたものに、世界があらためて価値を認めた。

静かな礎石の前に立つと、そんなふうにも思えます。


ーー情報・交通ーー
本薬師寺/奈良県橿原市城殿町 近鉄🚃橿原線畝傍御陵前駅下車→徒歩東へ🚶約10分
山田寺/奈良県桜井市山田 JRまたは近鉄🚃桜井駅下車→奈良交通バス(岡寺、飛鳥大仏行き)🚌山田寺前 500m程に飛鳥資料館があります。

ーー関連記事ーー
本編/興福寺を歩く/法隆寺/飛鳥・藤原の宮都/飛鳥寺/石舞台古墳/飛鳥宮跡/他
番外編/飛鳥寺名変歴/蘇我馬子と仏教受容(上・下)/乙巳の変/他
ーー著書紹介ーー  本を出しました。/8月30日発行
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