天武天皇の祈りから始まり、1300年近い時を越えて立つ東塔。薬師三尊、玄奘三蔵、そして写経による白鳳伽藍復興——西ノ京の薬師寺には、時代を超えて受け継がれてきた「祈り」があります。
奈良の西ノ京に足を踏み入れると、朱塗りの欄干と白壁の伽藍、その向こうに空へ伸びる二つの塔が姿を現します。
ここは薬師寺。
その始まりには、一人の天皇が病に倒れた皇后の回復を願った、切実な祈りがありました。
天武天皇(第40代)は天武天皇9年(680)、皇后であった鸕野讚良皇女、のちの持統天皇(第41代)の病気平癒を願って薬師寺の建立を発願します。
しかし天武天皇は、その完成を見ることなく686年に崩御。
その遺志を受け継いだ持統天皇のもとで造営が続けられ、697年には本尊の開眼が行われたと『日本書紀』に記されています。さらに文武天皇(第42代)の時代に至って堂宇が整えられました。
最初の薬師寺が建てられたのは、現在の奈良市西ノ京ではありません。
藤原京の地、現在の奈良県橿原市に残る「本薬師寺跡」です。
和銅3年(710)、都が藤原京から平城京へ遷ると、薬師寺も新しい都へ移ることとなり、養老2年(718)には現在の西ノ京の地で新たな伽藍の造営が進められていきました。
藤原京に残った旧寺跡は、のちに「本薬師寺」と呼ばれるようになります。
飛鳥・藤原から平城京へ——。
薬師寺の歴史そのものが、古代日本の都の移動と重なっているのです。
薬師寺式伽藍配置ーー二つの塔が並ぶ、画期的な伽藍
薬師寺を南から歩いていくと、中門の向こうに金堂、その左右に東塔と西塔、さらに北側には大講堂が並びます。
中央の金堂を挟むように東西二基の塔を配した形式は、
「薬師寺式伽藍配置」
と呼ばれます。
薬師寺は、日本で初めて東西に二つの塔を配した寺院として知られています。
それまで仏塔は、仏舎利を祀る寺院の中心的存在でした。
しかし寺院建築が発達していくにつれ、本尊を祀る金堂の重要性が高まり、塔と金堂の位置関係も変化していきます。
薬師寺では、その金堂を中心として二つの塔が左右に並びました。
左右対称に広がる堂塔と、南北へ延びる中心軸。
境内に立ってみると、それぞれの建物がばらばらに置かれているのではなく、伽藍全体が一つの秩序のもとに構成されていることがよくわかります。
各層に裳階をつけた華麗な建物が並ぶ姿は、古くから「龍宮造り」とも呼ばれてきました。
今私たちが目にする薬師寺の景観は、まさに白鳳文化が思い描いた理想の寺院世界を、現代にもう一度よみがえらせたものなのです。


東塔ーー1300年近い時を超えて残った「凍れる音楽」
薬師寺で、どうしても目を奪われる建物があります。
国宝・東塔です。
現在の東塔は天平2年(730)の建立と考えられており、薬師寺の創建期以来の姿を伝える唯一の建造物です。
三重塔なのですが、一見すると六重塔のように見えます。
なぜでしょう。
各層に「裳階(もこし)」と呼ばれる小さな屋根が設けられているため、本来の三つの屋根と合わせて六つの屋根が重なって見えるのです。
大小の屋根が交互に重なる姿には独特の律動感があります。
その美しさは、のちに「凍れる音楽」とも称されるようになりました。
そして塔の最上部に目を向けると、水煙には天人たちが舞い、仏を讃える姿が透かし彫りされています。
730年。
奈良時代のはじめに建てられたこの塔は、数え切れないほどの雨の日も、炎天下の日も、戦乱の時代も見てきました。
薬師寺の多くの建物が失われていくなかで、なぜか東塔だけが残った。
そう思って見上げると、一本の塔が突然、1300年近い時間を背負った「歴史の証人」のように感じられてきます。
白鳳の美意識を伝える東塔は、言葉を使わずに薬師寺の歴史を語り続けています。
金堂と薬師三尊ーー病を癒してほしいという祈り
東塔から金堂へ向かいます。
現在の金堂は昭和51年(1976)に再建されたものですが、その中央には薬師寺創建以来の本尊、国宝・薬師三尊像が安置されています。
中央に薬師如来。
向かって右に日光菩薩。
向かって左に月光菩薩。
薬師如来像は像高約2.55メートル。
両脇の日光菩薩・月光菩薩は約3メートルを超える堂々たる像です。
薬師如来は正式には「薬師瑠璃光如来」。
病や苦しみを除き、現世の人々を救う仏として信仰されてきました。
だからこそ、病に倒れた皇后のために天武天皇が造ろうとした寺の本尊として、これほどふさわしい仏はいなかったのでしょう。
両脇の日光・月光菩薩は、腰をわずかにひねりながら立っています。
正面から真っすぐに立つだけではありません。
首、腰、脚へと身体の軸がゆるやかに変化するこの姿には、インドから中国へ、そして日本へと伝わった造形表現を見ることができます。
仏像を通しても、古代日本が決して閉ざされた島国ではなかったことが伝わってきます。
薬師如来の台座に残された「シルクロード」
そして、薬師三尊を見るときに、ぜひ足元にも目を向けてみてください。
薬師如来が座る宣字形台座です。
ここには、驚くほど国際的な文様が集められています。
葡萄唐草文。
蓮華文。
裸形の力神。
そして東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武という中国の四神。
ギリシャ・ローマに源流をもつ葡萄唐草文をはじめ、ペルシャやインド、中国など、シルクロードを通じて伝わった文化の影響が一つの台座の中に凝縮されています。
四神の表現は、高松塚古墳やキトラ古墳の壁画にも通じるものがあります。
ここで、飛鳥・藤原を巡ってきた旅が、思いがけずつながります。
キトラ古墳の四神。
高松塚古墳の壁画。
そして薬師寺の薬師如来台座。
西方からシルクロードを通り、中国、朝鮮半島を経て日本へ。
白鳳文化とは、決して日本だけで生まれた文化ではありません。
世界から流れ込んださまざまな文化を受け止め、日本独自の姿へと変えていった時代だったのでしょう。


玄奘三蔵院ーーシルクロードを超えた求法の旅
薬師寺を語るうえでもう一人、忘れることのできない人物がいます。
玄奘三蔵です。
『西遊記』に登場する三蔵法師のモデルとして知られていますが、実在した7世紀唐の僧侶です。
玄奘は仏教の教えを求め、中国からインドへ向かいました。
砂漠を越え、高山を越え、数多くの国々を巡る17年に及ぶ旅。
目的は、仏教、とりわけ唯識の教えを学ぶことでした。
帰国後には膨大な経典の翻訳に取り組み、その教えは弟子の慈恩大師によって法相宗として大成されます。
その法相宗の大本山の一つが、ここ薬師寺です。
平成3年(1991)には、玄奘の遺徳を伝えるため玄奘三蔵院伽藍が建立されました。
その奥にある大唐西域壁画殿には、日本画家・平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」が奉納されています。
全長49メートル。
7場面13枚。
平成12年(2000)12月31日、20世紀最後の日に奉納された大作です。
平山画伯は玄奘が歩いた土地を実際に訪ね、取材を含めて約30年。
残したスケッチは約4000枚にも及びました。
壁画の前に立つと、一人の僧がなぜ命をかけてまで教えを求めたのか、という問いが浮かんできます。
そして薬師寺が、奈良だけの寺ではなく、遠くインドへ続く仏教文化の道の上に建っていることにも気付かされます。
玄奘三蔵については、とてもここだけでは語り尽くせません。
この人物の17年に及ぶ旅については、また番外編でゆっくり歩くことにしましょう。
西塔ーー453年ぶりによみがえった塔
東塔の向かいに立つ西塔。
鮮やかな青丹の色と金色の飾りが印象的です。
しかし、この西塔は古代からそのまま残った建物ではありません。
享禄元年(1528)の兵火によって焼失し、その後長い間、西塔のない時代が続きました。
再び塔が姿を現したのは昭和56年(1981)。
実に453年ぶりのことでした。
現在の西塔は、発掘調査や東塔の研究をもとに再建されています。
一方には、1300年近い時間を生き抜いてきた東塔。
もう一方には、20世紀に復興された西塔。
二つを並べて眺めると、不思議な光景です。
「古いもの」と「新しいもの」が対立しているのではありません。
古代の人々が造ったものを、現代の人々が受け継ごうとしている。
その二つの時間が、同じ空の下で向き合っているのです。
白鳳伽藍の復興ーー1巻の写経から始まった
薬師寺は、長い歴史の中で何度も災害や兵火に見舞われました。
とりわけ1528年の兵火では、金堂、西塔、大講堂など多くの主要堂塔を失います。
かつて「龍宮造り」と称された華麗な伽藍は、その姿を大きく失いました。
それを現代によみがえらせようとしたのが、昭和43年(1968)から始まった白鳳伽藍復興でした。
中心となったのは、高田好胤和上です。
その復興を支えたのが「写経」でした。
一人ひとりが一巻の経を書き、その納経によって伽藍を再建していく。
昭和51年(1976)には金堂。
昭和56年(1981)には西塔。
さらに中門、回廊、大講堂、食堂へ。
何百年もの間失われていた白鳳伽藍が、少しずつ姿を取り戻していきました。
考えてみれば、これもまた薬師寺らしい歴史です。
天武天皇が持統天皇の病気平癒を願った一つの祈りから始まった寺が、1300年後には無数の人々の写経によってよみがえった。
薬師寺は、建物だけが受け継がれてきた寺ではありません。
「祈る」という行為そのものが、時代を越えて受け継がれてきた寺なのかもしれません。
白鳳の光を、次の時代へ
薬師寺を歩いていると、さまざまな時代が同じ境内に存在していることに気付きます。
680年、皇后の病気平癒を願った天武天皇。
697年、持統天皇の時代に開眼されたと考えられる薬師三尊。
730年に建立された東塔。
17年をかけてインドへ向かった玄奘三蔵。
戦国時代の兵火。
そして昭和から平成へ続いた白鳳伽藍の復興。
その一つひとつを結んでいるものは、おそらく「祈り」です。
東塔を見上げる人。
薬師如来に手を合わせる人。
玄奘三蔵の旅に思いを馳せる人。
写経を一文字ずつ書く人。
祈りの形は時代によって変わっても、人が何かを願い、何かを次の世代へ残そうとする気持ちは、あまり変わらないのかもしれません。
西ノ京の空の下。
古い東塔と新しい西塔が、今日も静かに向き合っています。
その姿を見ながら、自分自身の小さな願いを重ねてみる。
それもまた、薬師寺を歩く旅の一つの形ではないか。

一一次回一ー 同じ西ノ京をもう少し歩きます。向かうのはーー唐招提寺。
薬師寺が天皇の祈りから始まった寺なら、唐招提寺は、一人の僧が海を越えて日本へやって来たことから始まった寺です。
次回は鑑真和上とともに、奈良時代の仏教をもう一つの角度から見ていきましょう。
一一情報・交通一一
JR🚃or近鉄🚃奈良駅→奈良県総合医療センター行き🚌バスで薬師寺下車→徒歩🚶➡️すぐ
🅿️有:境内図駐車場を確認してください。周辺は道路が狭いので十分にご注意ください。
また、逆に法隆寺前②万乗り場〜薬師寺へ🚌バスを利用すると乗り換えがなく便利です。
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