川原寺跡と橘寺|母への鎮魂と、聖なる誕生を伝える飛鳥の二つの塔

奈良。時々京都。

前回は、幻の九重塔を誇った大官大寺跡を訪ね、国家がその威信をかけて築いた巨大寺院の栄光と焼失の物語をたどりました。

今回は、飛鳥寺・薬師寺・大官大寺とともに「飛鳥四大寺」の一つに数えられた川原寺跡へ向かいます。

そして、そのすぐ南側に建つ橘寺へ。

二つの寺は飛鳥川にほど近い場所で向かい合うようにありますが、そこに伝えられてきた物語は少し異なります。

一つは、母を失った息子の祈り。

もう一つは、聖徳太子という「聖なる人物」の誕生をめぐる物語です。

飛鳥という同じ土地に残された、二つの祈りの記憶をたどってみましょう。

謎の大寺・川原寺

川原寺跡は、飛鳥川の左岸、飛鳥宮跡の対岸に位置しています。

飛鳥時代には大寺院として栄え、のちに飛鳥寺・薬師寺・大官大寺とともに「飛鳥四大寺」の一つに数えられました。

ところが不思議なことがあります。

これほど重要な寺院でありながら、『日本書紀』には川原寺がいつ、誰によって創建されたのかを直接記した記事がありません。

そのため、川原寺は今も「謎の大寺」と呼ばれることがあります。

有力な説の一つが、斉明天皇(第三十七代)が一時的に営んだ飛鳥川原宮の跡地に建てられたというものです。

斉明天皇元年(655年)、飛鳥板蓋宮が火災に遭ったため、斉明天皇は一時、川原宮へ移ったと『日本書紀』に記されています。

そして斉明7年(661年)、斉明天皇は九州の朝倉宮で崩御しました。

その後、息子である天智天皇(第三十八代)が母の冥福を祈り、かつて母が暮らした川原宮の地に寺を建立したのではないか――。

これが川原寺創建をめぐる有力な説です。

ただし、これを直接証明する史料が残されているわけではありません。

だからこそ「母への鎮魂」という美しい物語に惹かれながらも、ここでは歴史の余白として眺めておきたいと思います。

日本最初の一切経写経が行われた寺

『日本書紀』に川原寺の名がはっきりと登場するのは、天武天皇(第四十代)の時代です。

天武天皇2年(673年)、川原寺に書生を集めて一切経を書写させたという記事があります。

一切経とは、仏教の膨大な経典を集成したものです。

それを書き写すことは、現代のように印刷機もコピー機もない時代には途方もない事業だったはずです。

川原寺は単なる祈りの場所ではなく、仏教の知識を集め、写し、伝えていく場所でもあったのでしょう。

さらに天武天皇14年(685年)には、天皇の病気平癒を願って川原寺を含む大寺院で読経が行われています。

川原寺はやがて朝廷の重要な仏教儀礼を担う寺院となり、飛鳥四大寺の一つとして大きな存在感を持つようになりました。

一塔ニ金堂ーー川原寺だけの美しい伽藍

現在の川原寺跡に立っても、飛鳥時代の堂塔は残っていません。

しかし昭和32年から34年(1957〜1959年)に行われた発掘調査によって、かつての伽藍の姿が明らかになりました。

その配置が、とても面白いのです。

南大門から中門へ入り、その奥に中金堂。

そして中庭を挟むように、一方に塔、もう一方に西金堂が置かれていました。

一塔二金堂。

飛鳥寺とも山田寺とも違います。

この特徴的な配置は、現在では「川原寺式伽藍配置」と呼ばれています。

これまでこのシリーズでいくつもの寺院跡を訪ねてきましたが、伽藍配置を比べてみると、それぞれの寺が決して同じ設計思想で造られたわけではないことが分かります。

「なぜ、ここに塔を置いたのだろう」

「なぜ、金堂を二つ造ったのだろう」

礎石しか残っていないからこそ、そんなことを考えながら歩くのも寺院跡の楽しみ方の一つです。

白い大理石と、美しかった川原寺

もう一つ、川原寺を特徴づけるものがあります。

白い大理石の礎石です。

中金堂などには白色の石材が用いられ、江戸時代の国学者・本居宣長も飛鳥を訪れた際、この石に注目しました。

かつて「めのう石」とも呼ばれましたが、実際には大理石と考えられています。

さらに川原寺から出土した瓦には、大陸文化の影響を感じさせる華麗な蓮華文様が見られます。

白い石。

美しい瓦。

そして一塔二金堂の特異な伽藍。

今の静かな寺跡からは想像しにくいのですが、完成した当時の川原寺は、かなり華やかな寺院だったのではないでしょうか。

火災を繰り返し、姿を消した川原寺

しかし、その繁栄は永遠には続きませんでした。

川原寺は長い歴史の中で、何度も火災に遭います。

特に建久2年(1191年)の火災については、九条兼実の日記『玉葉』にも記録が残されています。

その後再建されたものの、かつての勢いを取り戻すことはなく、中世以降は次第に衰退していきました。

そして昭和49年(1974年)、寺跡の裏山から驚くべきものが発見されます。

大量の塑像や塼仏(せんぶつ)の断片です。

塼仏とは、粘土を型に入れて仏像を浮き彫りにし、焼き上げたもの。

小さな仏たちが、かつて堂内の壁を埋めるように並んでいた可能性があります。

今残るのは断片です。

けれど、その断片を一つ一つ想像の中で元に戻していくと、飛鳥時代の堂内がどれほど華やかだったのか、少し見えてくるような気がします。

現在、中金堂跡付近には弘福寺(ぐふくじ)が建ち、川原寺の法灯を伝えています。

古代の大寺院は失われても、祈りそのものが完全に途絶えたわけではありません。

道の向こうには、聖徳太子の橘寺

川原寺跡から目を南へ向けると、もう一つの寺があります。

橘寺です。

正式には仏頭山上宮皇院菩提寺。

寺伝では、ここは聖徳太子生誕の地とされています。

この地にはかつて欽明天皇(第二十九代)の別宮「橘宮」があり、太子がこの地で生まれたという伝承が語り継がれてきました。

ただし、これも歴史資料によって確定した「史実」というより、橘寺に伝わる聖徳太子信仰の大切な物語として受け止めるのがよいでしょう。

橘寺には、もう一つ壮大な伝説があります。

推古天皇(第三十三代)の時代、聖徳太子が『勝鬘経』を講じた際、空から蓮の花が降り、山には千の仏頭が現れ、太子の冠から光が放たれた――。

その奇瑞に驚いた推古天皇が、橘宮を寺へ改めるよう命じた。

寺伝では、それが橘寺の始まりとされています。

歴史というより、まるで仏教説話を読んでいるような世界です。

けれど、このような物語が長い年月を越えて語り継がれてきたこと自体が、聖徳太子が後世の人々にとってどれほど特別な存在になっていったのかを教えてくれます。

橘寺跡

橘という名に残る「不老不死」の物語

「橘寺」という美しい名前にも伝説があります。

垂仁天皇(第十一代)の命を受けた田道間守(たじまもり)が、不老不死の実を求めて常世の国へ旅立ち、「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を持ち帰ったという『日本書紀』の物語です。

その実が橘であったとされ、橘とこの土地を結びつける伝承が生まれました。

聖徳太子。

不老不死の実。

そして常世の国。

橘寺には、歴史上の人物と古代の伝承が不思議なほど重なっています。

発掘で見えてきた橘寺の本当の姿

では、考古学から見た橘寺はどうなのでしょう。

橘寺についても、創建年を直接示す確かな記録は残されていません。

『日本書紀』に寺名が登場するのは天武天皇9年(680年)。

「橘寺尼房失火」という火災の記事です。

少なくともこの頃までには、橘寺が存在していたことになります。

発掘調査では、中門・塔・金堂・講堂などの遺構が確認され、古代の伽藍の姿が少しずつ明らかになってきました。

かつては四天王寺式に近い配置とも考えられましたが、その後の調査によって伽藍の復元については再検討も行われています。

さらに興味深いのは、多くの塼仏が出土していることです。

すぐ北に位置する川原寺からも大量の塼仏が見つかっています。

道を隔てた二つの寺が、建築技術や仏教美術の面でも影響し合っていたのではないか。

そんな想像も広がります。

善と悪、二つの顔を持つ「二面石」

橘寺を訪れたら、ぜひ見ておきたいものがあります。

境内に置かれた二面石です。

一つの石の両側に、それぞれ異なる顔が彫られています。

一般には、人間の心にある「善」と「悪」を表しているとも説明されます。

けれど、誰が、いつ、何のために造ったのか。

はっきりしたことは分かっていません。

飛鳥には、猿石、亀石、酒船石など、用途の分からない不思議な石造物がいくつも残されています。

二面石も、その仲間の一つなのでしょうか。

それとも橘寺独自の宗教的な意味を持つものだったのでしょうか。

答えは出ません。

でも、表と裏にある二つの顔を見ていると、少し考えてしまいます。

人間には善い心もあれば、そうではない心もある。

1300年前の人も、同じことを考えていたのでしょうか。

分からないからこそ、立ち止まってしまう石です。

飛鳥川のほとりに残る、二つの祈り

川原寺跡と橘寺。

ほんの短い距離にある二つの寺ですが、その物語は対照的です。

川原寺には、母・斉明天皇を失った天智天皇の鎮魂の祈りが、その創建説の一つとして伝えられています。

橘寺には、聖徳太子の誕生と奇跡をめぐる物語があります。

母を送る祈りと、新しい命を迎える物語。

一方は「死」から始まり、もう一方は「誕生」から始まる。

そう考えて二つの寺を眺めてみると、道を隔てて向かい合うその位置まで、どこか意味深く感じられてきます。

もちろん、それは後世の私たちが感じる物語にすぎないのかもしれません。

けれど、遺跡を歩く楽しみとは、史実を覚えることだけではないと思います。

残された礎石や石仏、寺に伝わる物語を手がかりに、

「ここで昔の人は何を祈ったのだろう」

と想像してみる。

その瞬間、遺跡は教科書の中から、今自分が立っている場所へ戻ってきます。

世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産となった川原寺跡と橘寺。

飛鳥という土地に仏教が根づいていく過程とともに、人々が死者を送り、聖なる人物を敬い、祈りを受け継いできた時間を伝える場所です。


一一情報・交通一一
川原寺跡/近鉄🚃吉野線・飛鳥駅下車/駅前から明日香周遊バス🚌→川原or岡橋本→徒歩🚶
近鉄🚃橿原神宮前駅・東口から明日香周遊バス🚌→川原or岡橋本→徒歩🚶
橘寺跡/道路を挟んで向かい合ってます。
🚲レンタサイクルもおすすめです。
⚠️)周遊バス🚌は1時間に1本程度です。事前にお確かめの上ご利用下さい。

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