比叡山延暦寺|西塔、横川へ、 日本仏教を育てた祈りの山を歩く

奈良。時々京都。

西塔から横川へ。源信、元三大師、千日回峰行――比叡山のさらに深い祈りの世界へ。

前回は、比叡山延暦寺発祥の地・東塔を歩きました。

最澄が山に入り、小さな一乗止観院を建てたことから始まった比叡山。

根本中堂では「不滅の法灯」を前に、1200年を超えて受け継がれてきた祈りについて考えました。

けれど、比叡山はまだ終わりません。

東塔から西へ。

そしてさらに北へ。

山の奥へ入っていくほど、観光寺院としての延暦寺とは少し違う顔が見えてきます。

今回は西塔と横川を歩きます。

そこには、最澄の志を受け継いだ僧たちの修行の場があり、やがて法然や親鸞たちへつながっていく浄土教の芽もありました。

そして、比叡山を語るうえで避けて通れない千日回峰行の世界もあります。

さて、もう少し山の奥へ進んでみましょう。

東塔から西塔へ|山の広さを知る

東塔を離れ、西塔へ向かいます。

西塔は東塔から西へおよそ1km。

歩いて20分ほどですが、未舗装の道や坂、階段もあります。

建物が途切れ、木立の間を歩いていると、比叡山延暦寺が「一つのお寺」ではないことを改めて実感します。

前回、延暦寺とは山内約1700ヘクタールに点在する約100もの堂塔伽藍の総称だと紹介しました。

歩けば、それが数字ではなく体で分かります。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

少し歩いただけなのに、東塔とは空気が変わります。

人の声が遠のき、聞こえてくるのは木々のざわめきや鳥の声。

比叡山では、堂宇と堂宇の間を歩く時間もまた、参拝の一部なのかもしれません。

にない堂

「にない堂」弁慶が担いだ?

西塔へ入って目を引くのが、二つのよく似たお堂です。

常行堂と法華堂。

二つの建物が廊下でつながり、並んで立っています。

通称は「にない堂」。

名前の由来がおもしろい。

あの武蔵坊弁慶が、二つのお堂をつなぐ廊下へ肩を入れ、そのまま担いだ――。

そんな伝説が残っています。

もちろん、実際に弁慶が巨大なお堂を持ち上げたかどうかは……。

そこは伝説として楽しみましょう(笑)。

比叡山には、こういう話が似合います。

左側の常行堂には阿弥陀如来、右側の法華堂には普賢菩薩が祀られています。

ここでは現在も、常行三昧行と法華三昧行という修行が続けられています。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

二つのお堂が一つの廊下で結ばれている姿を見ていると、比叡山の仏教の特徴が少し見えてくるように思います。

念仏だけでもない。

法華経だけでもない。

座禅もあり、密教もあり、戒律もある。

一つの道だけではなく、さまざまな仏教の教えを学ぶ。

その中から自分自身の答えを探していく。

後に、この山からいくつもの宗派の祖師が生まれることを考えると、何となく納得できる気がします。

釈迦堂|西塔の中心へ

西塔の本堂は釈迦堂です。

正式には転法輪堂。

その名の通り、本尊は釈迦如来です。

現在の建物は、もともと園城寺(三井寺)の金堂だったものを、豊臣秀吉が文禄4年(1595年)に西塔へ移築したもの。

延暦寺に現存する建築物の中では最古とされています。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

東塔の根本中堂とは、また少し違った静けさがあります。

比叡山には最澄、円仁、円珍、良源、源信……と次々に高僧が登場します。

そして気がつけば、人物名と教義で頭がいっぱいになります(笑)。

そんなとき、釈迦堂の名を見ると、ふと思います。

どれほど仏教が枝分かれしても、そのずっと先には釈迦がいる。

当たり前のことなのですが、こういう場所を歩いていると、時々その「当たり前」に戻されます。

浄土院|今も最澄に仕える場所

西塔へ向かう途中、東塔との境に近いところに浄土院があります。

ここは最澄の御廟所です。

弘仁13年(822年)に最澄が入寂した後、その遺骸は仁寿4年(854年)、慈覚大師円仁によってこの地へ移されました。

現在も十二年籠山行を行う僧が、まるで最澄が今も生きているかのように、日々仕えているといいます。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

この話を知ると、「1200年前の人」という感じが少し消えてしまいます。

歴史上の人物として祀っているのではなく、

今もそこに師がいる。

そのように接し続けているのです。

不滅の法灯もそうでした。

比叡山では、過去を保存しているというより、過去を現在形で生きているように感じることがあります。

さらに奥へーー横川

西塔から横川までは北へ約4km。

シャトルバスなら10分ほどですが、歩けば東海道自然歩道を通ってかなりの山道になります。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

ここまで来ると、東塔とはずいぶん雰囲気が違います。

横川は、第3世天台座主・慈覚大師円仁によって開かれました。

木々の中に堂宇が点在し、静けさもさらに深まります。

山の奥。

まさに、そんな言葉が似合います。

その中心にあるのが横川中堂です。

横川 中堂

横川中堂|山中に浮かぶ船

横川中堂は、少し変わった姿をしています。

朱塗りの舞台造りのお堂で、全体を見ると船が浮かんでいるようにも見えます。

遣唐使船をモデルにしたともいわれます。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

本尊は聖観音菩薩。

現在の建物は昭和46年(1971年)に再建されたものです。

古いものだけを見に来たつもりが、ここでもまた気づきます。

比叡山は、何度も焼け、壊れ、再び建てられてきた山です。

古い建物だけが歴史なのではありません。

失われたものをもう一度建てることもまた、歴史の一部なのでしょう。

恵心堂|ここで『往生要集』が生まれた

横川で、Tomとしては見逃せない場所があります。

恵心堂です。

ここは恵心僧都源信の旧跡。

阿弥陀如来を祀る念仏三昧の道場で、源信はここで『往生要集』や『二十五三昧式』などを著したとされています。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

『往生要集』。

この名前は、これからTomが何度も向き合うことになりそうです。

源信は、人が死後に向かう地獄の恐ろしさを具体的に描く一方で、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生する道を説きました。

地獄を語ることが目的だったのでしょうか。

私は、少し違うような気がしています。

地獄を見せたかったのではなく、

「では、どう生きるのか」

そう問いかけたかったのではないでしょうか。

山深い横川の小さな堂で、一人の僧が死と救いについて考え続けた。

その書物が何百年もの時間を越え、法然や親鸞をはじめ後世の浄土教へ大きな影響を与えていく。

そう考えると、横川の静けさが急に違って見えてきます。

元三大師堂|「おみくじ」の始まり?

もう一つ、横川でおもしろい場所があります。

元三大師堂(四季講堂)です。

祀られているのは、平安時代の天台僧・良源。

「元三大師」の名でも知られます。

良源は荒廃していた比叡山を再興し、天台宗の教学と組織を立て直した人物です。

そして、この元三大師にはもう一つ意外な顔があります。

おみくじの元祖とも伝えられている人物なのです。

現在のおみくじにつながる形式を考案したとされ、元三大師堂は「おみくじ発祥の地」とされています。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

さらに、角の生えた鬼のような姿で描かれる「角大師」の護符でも有名です。

病魔や災厄を退けるため、自ら鬼の姿になった――という伝承です。

高僧なのに鬼。

そしておみくじ。

比叡山は、知れば知るほど話が増えていきます(笑)。

これだけでも番外編が一つ書けそうです。

千日回峰行|ただ歩く修行ではない

比叡山を歩いていると、どうしても考えてしまうのが千日回峰行です。

「千日」と言いますが、1000日間連続して歩くわけではありません。

7年をかけて行われる修行です。

最初の3年間は毎年100日、1日およそ30km。

4年目と5年目は、それぞれ200日。

700日を満行すると、9日間の断食・断水・不眠・不臥という「堂入り」が待っています。

その後は京都市内まで行程が広がり、最終的に1000日を満行します。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

数字だけを見ても、私には想像できません。

けれど、千日回峰行には単なる肉体的苦行とは違う意味があります。

山川草木、出会うものすべてに仏性を見いだして礼拝する。

山を歩くことそのものが祈りなのです。(天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]⁠)

ほんの一部を歩くだけでも、坂道に「まだ続くの?」と思う私には、とても真似できません(笑)。

それでも、歩くことと祈ることが一つになる感覚。

これは少し分かる気がします。

古道を歩いていてもそうです。

目的地だけではなく、そこへ向かう途中で考える時間があります。

歩く速度だから見えるものがあります。

比叡山では、それが修行にまで高められているのでしょう。

なぜ、これほど多くの宗祖が比叡山から出たのか

前回も触れましたが、比叡山では後の日本仏教を大きく変える僧たちが学びました。

法然。

親鸞。

栄西。

道元。

日蓮。

彼らは最終的には、それぞれ違う道へ進みました。

念仏へ。

禅へ。

法華経へ。

では、比叡山の教育は失敗だったのでしょうか。

私はむしろ逆なのではないかと思います。

この山は、一つの答えを与えたのではなく、問いを与えた場所だったのではないでしょうか。

「どうすれば人は救われるのか」

「仏の教えとは何なのか」

「自分は何を信じるのか」

その問いを抱えたまま山を下り、それぞれが自分の答えを探していった。

だから、まったく異なる宗派が生まれた。

そう考えると「日本仏教の母山」という言葉の意味が、少し違って見えてきます。

母は、子どもをみんな同じ人間には育てません。

それぞれが、自分の道へ歩いていく。

比叡山も、そんな山だったのかもしれません。

比叡山を歩き終えて

東塔から始まり、西塔、横川へ。

二回に分けて比叡山を歩きました。

最澄が灯した小さな火。

今も師に仕えるように守られる御廟。

山の中を巡る修行者。

そして横川で『往生要集』を書いた源信。

比叡山の歴史は、単に「有名な僧侶を何人輩出したか」という話ではないように思います。

一人が問いを持つ。

考える。

修行する。

そして次の人へ渡す。

その繰り返しが1200年以上続いてきた山です。

飛鳥寺から始めた仏教の旅は、法隆寺を通り、広隆寺へ、そして比叡山まで来ました。

ところが比叡山へ来ると、ここからまた道が何本にも分かれていきます。

法然へ。

親鸞へ。

道元へ。

日蓮へ。

そして、源信の『往生要集』へ。

困ったことに、また書きたいことが増えてしまいました(笑)。

でも、それでいいのでしょう。

一つ知ると、その向こうにまた知らない歴史が見えてくる。

だから歴史は面白い。

比叡山を下りながら、次はどこへ歩こうか。

もう、そんなことを考えていました。


一一情報・交通一一  比叡山①を参照してください。

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