法起寺|山背大兄王が父の遺志を継いだ、斑鳩にたつ最古の三重塔

奈良。時々京都。

聖徳太子の遺志を受け、山背大兄王が宮を寺へ。

斑鳩の田園に立つ法起寺には、父から子へ受け継がれた祈りと、1300年以上残る三重塔があります。

前回は、聖徳太子の母・間人皇后ゆかりの中宮寺を訪ねました。

斑鳩の里には、法隆寺を中心に、聖徳太子とその一族の記憶を今に伝える寺々が静かに点在しています。

そのどれもが華やかに自己主張するわけではありませんが、田園の風景の中に立つからこそ、かえって古代の祈りが身近に感じられる場所でもあります。

今回取り上げるのは、法隆寺の東北、のどかな田畑の中に佇む法起寺(ほうきじ)です。

法起寺は、法隆寺・四天王寺・中宮寺などとともに「太子御建立七ヵ寺」の一つに数えられる寺として知られています。

ただし、この寺を実際に形にしたのは、聖徳太子本人ではありません。

太子の遺言を受け、その長子である山背大兄王が、父の宮殿を寺へと改めた――。

法起寺の始まりには、そんな父子二代にわたる願いが重なっています。

聖徳太子と岡本宮、山背大兄王に託された遺志

法起寺の前身は、岡本宮と呼ばれる宮殿であったと伝えられています。

推古天皇14年(606年)、聖徳太子はこの岡本宮で、推古天皇のために法華経を講じたとされます。

当時の太子は、政治改革の中心に立ちながら、同時に深い仏教信仰を持つ人物でもありました。政務のかたわら、自ら仏典を語る場を持っていたということは、太子にとって仏教が単なる教養や制度ではなく、生き方そのものに深く結びついていたことを感じさせます。

その後、推古天皇30年(622年)、太子は薨去に際して、長子の山背大兄王に「岡本宮を寺に改めよ」と遺命したと伝えられています。

父の死に臨んで託されたこの願いを、山背大兄王は受け止めました。

法起寺は、単に太子ゆかりの寺というだけでなく、父の志を子が受け継いで築いた寺として見ると、また違った表情を見せてくれます。

長い歳月をかけて整えられた法起寺

もっとも、遺言が残されたからといって、すぐに現在のような伽藍が完成したわけではありません。

寺の造営は長い年月をかけて進められました。

舒明天皇10年(638年)には、渡来系の僧・福亮僧正が聖徳太子のために弥勒像と金堂を造立したとされ、さらに天武天皇14年(685年)には、同じく渡来系の学僧とされる恵施僧正が宝塔建立を発願します。

そして慶雲3年(706年)、ようやく塔の露盤が作られ、伽藍が整えられていきました。

聖徳太子の遺言から数えると、実に80年以上。

ひとつの寺をつくるという営みが、いかに長い時間と多くの人の力の上に成り立っていたかがわかります。

父の願いを受けた山背大兄王。

それをさらに支えた僧たちや工人たち。

法起寺は、一人の偉人の名声だけでできた寺ではなく、何世代にもわたる祈りの積み重ねによって生まれた寺だったのです。

法隆寺とは逆に並ぶ、「法起寺式伽藍配置」

法起寺の特徴のひとつが、その伽藍配置です。

昭和25年(1950年)の発掘調査によって、法起寺は西に金堂、東に三重塔を置く配置であったことが確認されました。

これは法隆寺西院の、東に金堂、西に塔という配置とは左右が逆になります。

この特徴は「法起寺式伽藍配置」と呼ばれています。

同じ斑鳩の里に立つ二つの寺が、どこか対をなすように設計されていた――。

そう考えると、法隆寺と法起寺を続けて歩く楽しみも増してきます。

現在の境内は静かでこぢんまりとした印象ですが、かつては講堂の左右から回廊が延び、堂塔を囲む、もっと大きな寺域を持っていました。

今ある風景から往時の姿を想像すると、田園の中に古代の大寺がふっと重なって見えてくるようです。

法起寺最大の見どころ、現存最古の三重塔

法起寺を訪れた人の目をまず引くのは、やはり三重塔でしょう。

この塔は、日本に現存する最古の三重塔として知られています。

高さは約24メートル。すらりと空へ伸びるその姿は、華やかというよりも、どこか端正で、静かな気品をたたえています。

柱間の寸法や組物の意匠には、法隆寺との共通点も多く見られ、同じ工人集団の技術が生かされていることを思わせます。

また、上へ行くほど細く軽やかに見せる逓減の美しさは、飛鳥時代の建築がすでに高度な美意識を備えていたことを物語っています。

法隆寺五重塔、法輪寺三重塔とともに「斑鳩三塔」と呼ばれてきた法起寺の三重塔。

そのうち、創建当初の姿を今に伝える塔としては、法起寺のものがとりわけ貴重な存在です。

斑鳩の青空の下、田畑の向こうにこの塔が見えてくる瞬間には、何度訪れても心がすっと静かになります。

荒廃を超えて、江戸時代に再び蘇った寺

奈良時代には寺勢を誇った法起寺も、中世に入ると次第に衰えていきました。

やがて堂宇の多くが失われ、戦乱の影響もあって、長い時間の中で境内は荒れていきます。

江戸時代の初め頃には、広い境内の中に三重塔だけがぽつんと残るような姿だったとも伝えられます。

けれども、ここでも法灯は絶えませんでした。

この荒廃を憂えた僧・真政圓忍は、弟子たちとともに再興を発願し、延宝6年(1678年)には三重塔を修復、元禄7年(1694年)には講堂を再建しました。

さらに幕末には金堂跡に聖天堂も建立され、少しずつ現在の寺観が整えられていきます。

失われたものを嘆くだけでなく、再び建て直し、守り続ける。

法起寺の歴史には、そうした人々の地道な力もまた刻まれています。

世界遺産として受け継がれる法起寺

現在の法起寺は聖徳宗の寺院で、山号は岡本山。

講堂本尊であった木造十一面観音菩薩立像は重要文化財に指定され、現在は収蔵庫に安置されています。

そして平成5年(1993年)、法起寺は法隆寺とともに「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産に登録されました。

これは姫路城と並ぶ、日本最初の世界遺産の一つでもあります。

法隆寺ほど多くの建物が残るわけではありません。

けれど、法起寺には法起寺の良さがあります。

田畑に囲まれた静かな境内。

その中央に、1300年以上の時を超えて立ち続ける三重塔。

派手さがないからこそ、この寺では「建物を見る」というより、時間の流れそのものに出会うような感覚があります。

法隆寺から少し足をのばしてここまで来ると、斑鳩という土地が、ただの観光地ではなく、祈りの風景を今も残す里であることがよくわかります。

おわりに

法起寺は、聖徳太子の遺志を受け、山背大兄王がその思いを形にし、さらに多くの人の手によって守り継がれてきた寺です。

父から子へ。

そして子から、後の時代の人々へ。

その連なりの中で、法起寺の三重塔は今も静かに立ち続けています。

にぎやかな大寺院のような迫力とは少し違います。

けれど、斑鳩の田園風景の中に立つその姿には、かえって深い余韻があります。

古代の人々の祈りは、こうして風景の中に残っていくのだなあ。

法起寺を歩いていると、そんなことを自然に思わされます。

そしてもう一つ。

この寺を生んだ山背大兄王が、後に一族とともに悲劇的な運命をたどることを思うと、なおさらこの塔の静けさが胸に残ります。

父の遺言から始まった祈りの場所。

その時間の長さこそが、法起寺という寺の何よりの魅力なのだと思います。


一一情報・交通一一   近鉄🚃橿原線「筒井駅」or「郡山駅」下車→奈良交通バス🚌「法起寺前」→徒歩🚶‍➡️13分程。🅿️あります
10月中旬〜11月上旬/コスモスが最古の三重塔を背景に、周辺の休耕田に咲きます。

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