都が移り、伽藍が焼け、寺の名前が変わっても――。
飛鳥大仏は、およそ1400年もの間、この場所に座り続けてきました。
日本仏教の始まりを伝える飛鳥寺を歩きます。
前回は、聖徳太子ゆかりの橘寺を訪ねました。
橘寺から飛鳥の道を北へたどっていくと、やがて現れるのが飛鳥寺です。
今の飛鳥寺は、決して大きなお寺ではありません。
ところが――。
ここにはかつて、日本で初めてとされる本格的な仏教寺院が建っていました。
そして、その本堂の中には、一体の仏さまが座っています。
飛鳥大仏。
寺の名前が変わっても、都が移っても、堂が焼けても。
この仏さまは、およそ1400年もの間、ほぼ同じ場所から飛鳥の歴史を見続けてきました。
今回は、「日本の仏教が形になった場所」ともいえる飛鳥寺を歩いてみたいと思います。
日本で初めての本格的な寺院が、飛鳥に生まれた
飛鳥寺の始まりは、崇峻天皇元年(588年)頃までさかのぼります。
建立を進めたのは、仏教受容を推し進めた蘇我馬子でした。
寺は「法興寺」と呼ばれ、推古天皇4年(596年)頃には伽藍がほぼ整ったと考えられています。
今の静かな境内からは少し想像しにくいのですが、当時の飛鳥寺は大変な規模でした。
発掘調査によって明らかになったのは、中央に塔を置き、その東・西・北を三つの金堂が囲むという、一塔三金堂式と呼ばれる独特の配置です。
塔を中心に三つの金堂。
回廊に囲まれたその姿は、今の飛鳥の田園風景とはまるで違ったことでしょう。
ここには僧侶たちが集まり、人々が行き交い、異国から伝わってきた新しい文化――仏教が息づいていました。
飛鳥寺は単なる「ひとつのお寺」ではありません。
日本という国が、新しい思想と文化を受け入れ始めた場所のひとつだったのです。

京都は奈良へ。飛鳥寺も「元興寺」へ
時代が進み、和銅3年(710年)。
都は藤原京から平城京へ移ります。
政治の中心が移れば、大寺院もまた新しい都へ向かいます。
飛鳥寺もその流れの中で平城京へ移され、養老2年(718年)頃、新たに元興寺として整えられていきました。
しかし――。
ここで少し面白いことが起こります。
「お寺が奈良へ移ったのだから、飛鳥寺は終わった」
……とはならなかったのです。
飛鳥の旧寺にも人々の信仰は残り続けました。
やがて平城京の元興寺と区別するため、飛鳥に残った寺は「本元興寺」とも呼ばれるようになります。
つまり、
法興寺 → 元興寺 → 本元興寺
と、同じ寺の歴史が枝分かれしていったのです。
名前だけ追っていると、ここで迷子になります(笑)。
けれど、「都が移っても、飛鳥の寺は消えなかった」と考えると、ずいぶんわかりやすくなります。
ところが1196年、大伽藍は炎の中へ
飛鳥に残った本元興寺も、平安時代にはまだ大寺として存在していました。
しかし時代が下るにつれ、建物は少しずつ失われていきます。
そして建久7年(1196年)。
落雷による火災が寺を襲いました。
塔と中金堂も焼失。
飛鳥寺を象徴してきた大伽藍は、ここでほぼ姿を消してしまいます。
明日香村の歴史資料にも、1196年に「本元興寺(飛鳥寺)落雷で焼失」と記録されています。
600年近くこの地に建っていた塔も、その後再建されることはありませんでした。
現在の境内を歩いていても、
「ここにそんな巨大な寺があったの?」
と思うほどです。
けれど地下には、その記憶がしっかり残されていました。
昭和31・32年(1956・57年)頃から本格的な発掘調査が行われ、塔、三つの金堂、回廊などの遺構が次々に確認されていきます。
飛鳥寺は、地上から消えても地下で眠り続けていたのです。
堂がなくなっても、大仏はそこにいた
建物を失ったあとも残されたものがあります。
それが、現在の本尊である飛鳥大仏です。
銅造釈迦如来坐像。
像高は約2.75メートル。
鞍作止利、いわゆる止利仏師によって造られたと考えられ、推古17年(609年)頃には仕上げられていたとされます。
火災によって大きな損傷を受け、その後何度も修理されました。
だから、私たちが現在見ている飛鳥大仏のすべてが1400年前のもの、というわけではありません。
それでも、目元や額、耳、手などには創建当時の部分が残ると考えられてきました。近年の調査では、従来考えられていた以上に古い部分が残っている可能性も指摘されています。
私はこの仏さまの魅力は、単に「古い」ということだけではないと思います。
もっと心を引かれるのは――
場所です。
寺が焼けても。
周囲が田畑になっても。
時代が飛鳥から奈良、平安、鎌倉、室町へと変わっても。
飛鳥大仏は、この場所に座り続けました。
周囲の世界の方が、仏さまの前を通り過ぎていった。
そんなふうにも思えてきます。

大仏が雨ざらしだった時代
中世になると寺はさらに衰え、一時はほとんど廃寺に近い状態になったとも伝わります。
飛鳥大仏も、堂のない状態で長い年月を過ごしました。
現在は本堂の中に静かに座っている大仏を見ていると、とても想像できません。
けれど、この仏さまは雨も風も、そして飛鳥の四季も、その身に受けながら過ごした時代があったのです。
それでも、人々は仏さまを捨てませんでした。
豪華な伽藍が失われても、信仰まで失われたわけではなかったのでしょう。
寺院建築よりも先に、そこに仏さまがいる。
そんな仏教の原点のような風景だったのかもしれません。

江戸時代、飛鳥大仏に再び屋根ができる
飛鳥寺が現在につながる姿を取り戻し始めたのは江戸時代です。
17世紀には仏像を守るための堂や草庵が設けられ、やがて寺は安居院(あんごいん)と呼ばれるようになりました。
そして江戸時代後期、現在につながる本堂が建てられます。
ようやく飛鳥大仏は、再び屋根の下へ。
飛鳥寺、法興寺、元興寺、本元興寺、安居院。
名前だけ見ると、まるで別々のお寺のようです。
けれど、その中心にはずっと一つの流れがあります。
飛鳥の地に灯った仏教の火を消さない。
その思いを、人から人へ渡してきた1400年だったのでしょう。
飛鳥大仏の前に座ると、教科書の人物が急に近くなる
飛鳥寺を訪ねたら、ぜひ少しだけ時間をとって、飛鳥大仏のお顔を眺めてみてください。
飛鳥彫刻らしい杏仁形の目。
やや面長のお顔。
どこか異国の面影を感じさせる表情。
法隆寺金堂の釈迦三尊像にも通じる、止利様式の特徴を感じることができます。
そして考えてみると、この場所の周辺を歩いていたのは、
蘇我馬子。
聖徳太子。
推古天皇。
中大兄皇子。
中臣鎌足。
蘇我入鹿。
私たちには「歴史の教科書の人」ですが、飛鳥大仏にとっては、同じ時代に生きていた人々です。
そう思った瞬間、1400年前という距離が、少しだけ縮まるような気がします。
境内の外には、蘇我入鹿の首塚も
飛鳥寺の西側には、蘇我入鹿の首塚と伝えられる五輪塔があります。
もちろん、現在の五輪塔そのものが飛鳥時代からあるわけではありません。
けれど飛鳥寺と蘇我氏の深い関わりを考えると、ここに入鹿の伝承が残っているのも興味深いところです。
飛鳥寺は蘇我馬子によって建立されました。
そしてその孫・蘇我入鹿が乙巳の変で倒され、蘇我本宗家は滅亡します。
寺の始まりと、蘇我氏の栄華と衰退。
その両方の記憶が、わずかな距離の中に残っています。
飛鳥という土地が面白いのは、こういうところです。
一つの寺を見ているつもりが、いつの間にか日本史そのものへつながっていきます。
1400年動かなかった仏様
飛鳥寺を出ると、外にはいつもの明日香の田園風景が広がっています。
巨大な塔もありません。
三つの金堂もありません。
かつての大伽藍を知らなければ、小さな古寺として通り過ぎてしまうかもしれません。
けれど本堂の中には、飛鳥大仏が座っています。
都が移っても。
寺の名前が変わっても。
火に焼かれても。
堂を失っても。
人々がまた堂を建てても。
ずっとここにいた仏さまです。
飛鳥寺を訪ねたあと、私は「古い寺」という言葉だけでは、少し足りないように思います。
ここは、日本に仏教が根を下ろしていく、その最初の時間が今も残っている場所。
そして飛鳥大仏は、1400年もの間、その時間を黙って見つめ続けてきたのです。
一一情報・交通一一 飛鳥・藤原の宮都|モデルコースを参照して下さい。
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