元興寺|飛鳥寺から受け継いだ古代の瓦と、ならまちに眠る南都七大寺の記憶

奈良。時々京都。

飛鳥寺から平城京へ。

古代の瓦を今も屋根に残す元興寺を歩けば、ならまちそのものが巨大寺院の記憶を受け継いでいることに気づきます。

前回は、斑鳩の里に残る法輪寺を訪ねました。

今回は少し場所を移し、奈良町の中心にある元興寺(がんごうじ)を訪ねます。

以前、飛鳥寺を取り上げた際、平城遷都にともなって法灯の一部が奈良の元興寺へ受け継がれたことに触れました。

しかし、飛鳥寺そのものが消えて奈良へ移った、という単純な話ではありません。

飛鳥に残った寺は、のちに「飛鳥寺」「本元興寺」と呼ばれながら歩みを続け、一方、平城京に新たに造営された元興寺は、南都七大寺の一つとして発展していきました。

そして驚くのは、その規模です。

現在の元興寺だけを見ていると静かな古寺ですが、かつての寺域は、いま私たちが「ならまち」と呼んで歩いている一帯にまで広がっていました。

町の中を歩いているつもりが、実は古代寺院の境内を歩いている。

そう考えると、ならまちの景色も少し違って見えてきます。

法興寺から元興寺へ

元興寺の歴史をたどるには、飛鳥まで戻らなければなりません。

崇峻天皇元年(588年)、蘇我馬子の発願によって飛鳥に建立が始まった法興寺。

現在の飛鳥寺の前身です。

百済から寺工、瓦博士、画工などが渡来し、大陸や朝鮮半島から伝えられた建築技術を用いて、日本で最初の本格的な仏教寺院が造られました。

塔を中心に、北・東・西の三方に金堂を置く「一塔三金堂式」の伽藍です。

瓦葺きの大きな建物そのものが珍しかった時代です。

当時の人々が初めてその姿を目にしたとき、どれほど驚いたことでしょう。

和銅3年(710年)、都は藤原京から平城京へ移ります。

そして養老2年(718年)頃、飛鳥の寺を受け継ぐ大寺院が平城京に造営されました。

それが元興寺です。

こうして元興寺は、蘇我氏と深く結びついた飛鳥の寺から、国家仏教を支える官大寺へと、新しい役割を担うことになりました。

南都七大寺として栄えた元興寺

奈良時代の元興寺は、現在の静かな姿からは想像できないほど大きな寺院でした。

東大寺、興福寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺とともに「南都七大寺」に数えられ、奈良仏教を支える重要な寺として栄えます。

天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養では、元興寺の学僧・隆尊が『華厳経』を講じました。

元興寺の僧たちは、飛鳥寺以来の由緒を詠み込んだ歌を献じています。

つまり奈良時代になっても、

「私たちの寺は、飛鳥から続く仏教の始まりの寺なのだ」

という誇りが受け継がれていたのでしょう。

また、法相教学で知られる護命をはじめ、多くの学僧を輩出しました。

釈迦の誕生を祝う灌仏会や、現在のお盆につながる盂蘭盆会も、元興寺の前身である飛鳥の法興寺と深い関係を持っています。

元興寺の歴史をたどることは、日本に仏教行事が定着していく過程を見ることでもあるのです。

巨大な伽藍と五重塔

かつての元興寺には、現在では失われた壮大な伽藍がありました。

東側には五重塔がそびえ、中門には二天像や十一面観音像が安置されていたと伝わります。

「中門観音」と呼ばれた十一面観音には、長谷寺の観音像と同じ木から造られたという伝承もあります。

元興寺の二天像は後世の仏師にも大きな影響を与え、運慶が神護寺などの像を造る際に参考にしたという記録も残されています。

平安時代の貴族の日記にも元興寺参詣の記事が見え、奈良を代表する信仰の場であり続けました。

しかし、その姿は時代とともに少しずつ変わっていきます。

智光曼荼羅と「極楽坊」の誕生

平安時代に入ると、国家の寺としての元興寺の力は次第に弱まっていきました。

その一方で、新しい信仰が育ち始めます。

奈良時代の学僧・智光です。

智光は浄土教の研究を進め、極楽浄土の姿を表した「智光曼荼羅」を後世に伝えました。

智光が暮らしていた僧坊の一室に曼荼羅が祀られるようになると、その部屋は「極楽房」と呼ばれるようになります。

やがて阿弥陀仏の極楽浄土に往生したいと願う人々が、この場所へ集まるようになりました。

それまで元興寺が担っていたのは、学僧たちが仏教を学び、国家を支えるための仏教でした。

しかし次第に、

「死後、極楽浄土へ往生したい」

と願う普通の人々の信仰の場へと変わっていきます。

この極楽坊こそが、現在私たちが訪ねる元興寺へとつながっていきました。

大寺院が「ならまち」へ変わる

元興寺の衰退は、中世に入ると一層進みます。

長元8年(1035年)頃には、金堂をはじめとする伽藍の荒廃が進んでいたことが記録されています。

そして大きな転機となったのが、宝徳3年(1451年)の火災でした。

土一揆にともなう火災によって伽藍の多くが焼失し、智光曼荼羅の原本も失われたと伝えられています。

その後、元興寺は次第に、

智光曼荼羅を守る「極楽坊」、

五重塔を中心とする「観音堂」、

そして「小塔院」

などに分かれていきました。

さらに、失われた寺域には住宅や道路が造られていきます。

これが、今日の「ならまち」へとつながっていきました。

つまり、ならまちの町並みの下には、かつての元興寺の記憶が眠っているのです。

五重塔は中世の大火を生き残りましたが、安政6年(1859年)、近隣から出た火に巻き込まれ、観音堂とともに焼失しました。

以後、再建されることはありませんでした。

今も屋根に残る「飛鳥の瓦」

それでも元興寺には、飛鳥時代へ直接つながるものが残されています。

それが瓦です。

現在の国宝・極楽堂と禅室の屋根には、飛鳥寺創建期や平城京への移転前後に作られた古い瓦が今も使われています。

色も形も均一ではありません。

赤みを帯びたもの。

黒っぽいもの。

長い年月を感じさせるもの。

それらが新しい瓦と入り交じりながら屋根を覆っています。

丸瓦を重ねて葺く独特の方法は「行基葺き」と呼ばれます。

飛鳥で焼かれた瓦が奈良へ運ばれ、その後も修理を重ねながら使われ続けてきた。

屋根を見上げれば、そこに1400年近い時間が積み重なっているのです。

浮図田
新しい瓦と入り混じって屋根を覆ってます。

禅室に残る、582年伐採の古材

もう一つ驚かされるのが、国宝・禅室です。

禅室は奈良時代の僧房をもとに、鎌倉時代に改築された建物ですが、古い建築部材が数多く再利用されています。

その中には、年輪年代法によって西暦582年頃に伐採されたと判定された木材も含まれます。

法隆寺西院伽藍よりも古い時期の木が、いまも建物の一部として使われていることになります。

建物そのものを「582年建立」と考えることはできません。

けれど、一片の木材が飛鳥時代から今日まで使われ続けてきた。

そう思うだけで、少し不思議な気持ちになります。

小さな国宝「五重小塔」

法輪館には、国宝・五重小塔も伝わっています。

高さ数メートルほどの小さな塔ですが、単なる模型ではありません。

柱や組物など、実際の建築物と同じように細部まで造られており、奈良時代の五重塔の構造を知ることのできる極めて貴重な存在です。

大伽藍の五重塔は失われました。

しかし小さな塔の中に、奈良時代の建築技術が残されている。

元興寺らしい文化財だと思います。

「がごぜ」と鬼の伝説

元興寺には、少し怖くて楽しい伝説もあります。

『日本霊異記』には、怪力を持った童子が元興寺に現れた鬼を退治する話が収められています。

この元興寺の鬼は、のちに「元興寺(がごぜ)」と呼ばれ、鬼や妖怪を意味する言葉にもなりました。

現在の境内にも、かわいらしい鬼の石像がひっそりと置かれています。

古代仏教の大寺院でありながら、鬼の伝説まで残っている。

元興寺が長い年月、人々の生活のすぐそばにあったことを感じさせる話です。

石塔が並ぶ「浮図田」

境内でもう一つ印象に残るのが「浮図田(ふとでん)」です。

石塔や石仏が田んぼのように整然と並び、その数は約1500基。

中世から江戸時代にかけての供養塔などが集められています。

春から夏には花が咲き、石仏の間を彩ります。

巨大伽藍の跡とは思えないほど静かな場所ですが、この静けさもまた現在の元興寺の魅力でしょう。

荒れ寺から世界遺産へ

明治以降、極楽坊は一時荒廃し、国宝となる建物さえ傷みが激しくなっていました。

その復興に大きな力を注いだのが、昭和18年(1943年)に入寺した辻村泰圓でした。

戦争をはさみながら建物の修理と文化財の調査を進め、元興寺の再生に尽力します。

その過程では数多くの庶民信仰資料も発見され、後の元興寺文化財研究所へとつながっていきました。

そして平成10年(1998年)。

元興寺は、東大寺、興福寺、春日大社、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、春日山原始林とともに、世界文化遺産「古都奈良の文化財」の構成資産となりました。

巨大な伽藍の大部分を失いながらも、そこに積み重なった歴史そのものが、文化遺産として受け継がれているのです。

おわりに|ならまちの下に眠る大寺院

元興寺を訪ねて面白いのは、「残っているもの」だけではありません。

むしろ、

「ここに何があったのだろう」

と想像することにあります。

飛鳥に始まった日本最初期の本格寺院。

平城京を代表する南都七大寺。

学僧たちの研究の場。

極楽往生を願う庶民の寺。

そして、大伽藍が消えたあとに生まれた「ならまち」。

一つの寺の歴史の中に、飛鳥時代から奈良時代、平安、中世、近世、そして現代までの日本仏教の変化が重なっています。

境内で古い瓦を見上げたあと、元興寺の門を出て、ならまちを歩いてみてください。

その町並みそのものが、かつて元興寺だった場所です。

寺がなくなって町になったのではなく、

寺の記憶を抱えたまま、町が生まれた。

そんなふうに考えると、いつもの奈良町散策が少しだけ違って見えてくる気がします。


一一次回一ー 奈良・西の京へ。
天武天皇が皇后の病気平癒を願って発願したと伝わる、薬師寺を訪ねます。
一一情報・交通一一 近鉄🚃奈良駅→徒歩🚶‍➡️15分  JR🚃奈良駅→徒歩🚶‍➡️20分
近鉄🚃奈良駅→奈良交通🚌バス「福智院町」下車→徒歩🚶‍➡️5分
JR🚃奈良駅→奈良交通🚌バス「田中町」下車→徒歩🚶‍➡️5分
🅿️有ります。
散策:帰りには「ならまち」をゆっくりと散策も楽しいです。
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桃源郷
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