海を渡って飛鳥に根を張った人々と、二つの美しい石棺に眠った謎の人物。その記憶をたどります。
前回は、飛鳥宮を取り巻く飛鳥京跡苑池・飛鳥水落遺跡・酒船石遺跡を巡り、水を楽しみ、水で時を測り、水に祈った飛鳥の人々の姿をたどりました。
今回は、そこからさらに南へ。
渡来系氏族が根を張った檜隈(ひのくま)の地へ足を運びます。
東漢氏との深い関わりを持つ檜隈寺跡。
そして少し北西には、二基の精巧な家形石棺を今に残す菖蒲池古墳があります。
一見すると、寺院跡と古墳というまったく違う遺跡です。
しかし、その二つをたどってみると、天皇や皇族だけではない、飛鳥という国際色豊かな都を支えた人々の姿が見えてきます。
檜隈寺跡|渡来系氏族が暮らした土地
檜隈寺跡は、奈良県明日香村檜前に残る古代寺院跡です。
高松塚古墳の南方、高取山から北西へ延びる丘陵上に位置しています。
このあたりは古くから、多くの渡来系の人々が暮らした地域として知られています。
とりわけ深い関わりを持っていたのが、東漢氏(やまとのあやうじ)でした。
東漢氏は、一つの血縁集団だけで成り立っていたというより、大陸や朝鮮半島から渡ってきたさまざまな技術・知識を持つ人々を広くまとめた集団だったと考えられています。
その祖として伝えられるのが、阿知使主(あちのおみ)です。
『日本書紀』などには、阿知使主が渡来し、その子孫が大和の地で勢力を広げたという伝承が残されています。
海の向こうからもたらされた技術
檜隈という土地を考えるうえで興味深いのが、大陸との交流です。
『日本書紀』には雄略天皇の時代、身狭村主青や檜隈民使博徳らが呉へ赴き、織物の技術を持つ人々を伴って帰国したという記事があります。
もちろん、こうした古代の記録をそのまま現代的な意味で読み取ることはできません。
それでも、大陸や朝鮮半島から新しい技術や文化が伝わり、その担い手となった人々が飛鳥の社会を支えていたことは確かでしょう。
文字、工芸、建築、織物、金属加工――。
新しい国をつくっていくためには、政治を行う人物だけではなく、実際に物をつくり、制度を支える人々が必要です。
飛鳥の華やかな宮殿や寺院の背景には、そうした多くの技術者の姿があったはずです。
檜隈は、まさにその一つの拠点だったのでしょう。
檜隈寺はいつ建てられたのか
檜隈寺の創建時期について、正確なことは分かっていません。
文献にその名が現れるのは『日本書紀』朱鳥元年(686年)の記事です。
そこには軽寺、大窪寺などとともに檜隈寺の名が記されています。
つまり、この時点ではすでに寺院として存在していたことになります。
発掘調査による瓦の年代などからは、まず7世紀後半に金堂が造られ、その後、7世紀末頃までに塔や講堂などが整えられていったと考えられています。
一度に完成した寺ではなく、時間をかけながら伽藍が整備されていったようです。
その姿からは、東漢氏をはじめとした檜隈地域の人々が、仏教という新しい信仰を自分たちの土地に根づかせようとしていた様子も想像できます。
少し変わった伽藍配置
檜隈寺跡で面白いのが、その伽藍配置です。
発掘調査では金堂、塔、講堂、中門、回廊などの跡が確認されています。
しかし、その配置は飛鳥寺や法隆寺などとは少し違います。
西側を正面として中門を設け、その内側に塔を置き、塔の南側に金堂、北側に講堂を配置するという独特の構成です。
丘陵という限られた土地に建てられたため、地形に合わせた結果ではないかとも考えられています。
「寺院とはこう造るもの」
という決まりだけに従うのではなく、実際の土地に合わせながら伽藍を形づくったのでしょう。
渡来系の技術を感じさせる瓦済基壇
さらに注目したいのが、講堂跡に確認された瓦積基壇です。
これは基壇の外側に瓦を積み上げて仕上げる方法で、近江や山城、そして朝鮮半島の古代寺院にも類例があります。
檜隈寺跡にこうした技法が見られることは、この寺と渡来系の人々との関係を考えるうえでも重要です。
国営飛鳥歴史公園の資料でも、檜隈寺跡は東漢氏をはじめとする渡来系氏族との関係を示す遺跡として紹介されています。
寺を建てる。
塔を建てる。
瓦を焼く。
その一つ一つに、海の向こうから伝わった技術が生かされていたのでしょう。
そう考えると、礎石だけが残る寺跡も、急ににぎやかな場所に見えてきます。
於美阿志神社と十三重石塔
現在、檜隈寺跡には於美阿志神社(おみあしじんじゃ)が鎮座しています。
祀られているのは、東漢氏の祖とされる阿知使主です。
かつて渡来系の人々が暮らした檜隈の地に、その祖を祀る神社が残っている。
それだけでも、この土地が長く記憶を受け継いできたことが分かります。
境内には、かつての檜隈寺の塔心礎も残されています。
そして、その上には中世に建てられたとされる石塔が立っています。
「十三重石塔」と呼ばれていますが、現在は上部を失い十一層となっています。
古代寺院の塔が失われ、その跡に新しい時代の石塔が建てられる。
さらにその傍らには神社が鎮座する。
一つの場所に、古代仏教、中世の信仰、神社信仰が重なっています。
私はこういう場所を見ると、遺跡は「なくなったもの」ではないのだと思います。
形を変えながら、人々はそこを祈りの場所として使い続けてきたのでしょう。


菖蒲池古墳|二つの石棺が眠る古墳
檜隈寺跡から北西へ。
橿原市と明日香村の境界付近に位置するのが、菖蒲池古墳です。
現在確認されている墳丘は、一辺約30メートルの二段築成の方墳。
長い間、墳丘の形はよく分かっていませんでしたが、平成22年(2010年)の発掘調査によって方墳であることが明らかになりました。
埋葬施設は南側に開口する横穴式石室です。
花崗岩の大きな石を積み上げて造られ、内部の一部には漆喰が用いられていたことも分かっています。
そして、この古墳を特別なものにしているのが、玄室に置かれた二基の家形石棺です。

まるで家の屋根のような石棺
二基の石棺は、石室の奥行きに沿って縦一列に置かれています。
とりわけ特徴的なのが、その蓋です。
一般的な家形石棺とは異なり、屋根の棟を思わせる装飾的な造形が施されています。
しかも二基ともほぼ同じ形をしていることから、同じ工人、あるいは同じ工房によって造られた可能性が指摘されています。
石棺の内側には漆が塗られていました。
現在、柵越しではありますが、現地で玄室と石棺を見ることができます。(橿原市公式サイト)
約1400年前。
ここに誰かが葬られた。
それだけは確かです。
しかし、
「誰だったのか」
という問いになると、話は一気に難しくなります。
誰が眠っているのか
菖蒲池古墳の被葬者は、現在も特定されていません。
皇族クラスの人物ではないかという説があります。
また、蘇我氏と関係する墓ではないかという説もあります。
周辺には植山古墳、小山田古墳など、飛鳥時代の有力者との関係が議論されてきた古墳が点在しています。
そのため、菖蒲池古墳も蘇我氏の墓域の一角ではなかったかと考える研究者もいます。
さらに踏み込んで、
蘇我入鹿の墓ではないか。
という説もあります。
『日本書紀』には、蘇我蝦夷と入鹿のため「大陵」「小陵」という二つの墓が造られたという記事があります。
そこから、小山田古墳を蝦夷の墓、菖蒲池古墳を入鹿の墓に比定する説が生まれました。
しかし、小山田古墳については舒明天皇の初葬陵と考える説などもあります。
つまり、まだ決着はついていません。
ここは「分からないまま」にしておく方がいいのでしょう。
むしろ、
「これほど立派な石棺に、一体誰が眠ったのだろう」
と考えながら現地を見る。
それも、飛鳥を歩く楽しさの一つだと思います。

海の向こうから来た人々と、この地に眠った人々
檜隈寺跡には、海の向こうから伝わった文化や技術を受け入れながら、この土地に根を張って生きた人々の記憶があります。
菖蒲池古墳には、名は失われても、当時の最高水準の技術によって手厚く葬られた人物の記憶があります。
一方は、生きた人々の祈り。
もう一方は、亡くなった人へ向けられた祈りです。
そして、その両方を支えたのが、飛鳥という土地に集まった人々と技術でした。
天皇や皇子だけではありません。
渡来系氏族。
技術者。
豪族。
寺院を造った人。
石を削った人。
瓦を焼いた人。
歴史の教科書には名前の残らなかった多くの人々が、この飛鳥という都をつくっていました。
そんな人々の姿まで想像できるようになると、「飛鳥・藤原の宮都」は単なる遺跡の集合ではなく、一つの大きな人間の物語に見えてきます。
一一情報・交通一一
檜隈寺跡/奈良県明日香村檜前、高松塚古墳やキトラ古墳にも近い場所です。近鉄🚃飛鳥駅→徒歩🚶やレンタサイクルなどを利用して巡ることができます。
現地には於美阿志神社が鎮座し、その境内や周辺に檜隈寺の塔跡・金堂跡・講堂跡などが残されています。
菖蒲池古墳は奈良県橿原市南東部、明日香村との境界付近に位置します。
玄室は柵越しですが現地から見学でき、内部に置かれた二基の特徴的な家形石棺を見ることができます。
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番外編
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本編|奈良時々京都
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