なぜ天皇の墓は八角形になったのか。斉明、天武、持統ーー飛鳥の終わりに現れた特別な陵墓をたどります。
前回は、渡来系氏族との深い関わりを持つ檜隈寺跡と、二基の精巧な家形石棺が残る菖蒲池古墳を訪ね、飛鳥を支えた人々と豪族たちの記憶をたどりました。
今回は、飛鳥時代の終わりが近づく中で現れた、新しい形の天皇陵を訪ねます。
牽牛子塚古墳と天武・持統天皇陵古墳。
この二つの古墳に共通しているのが、「八角形」という特異な墳形です。
前方後円墳でも、円墳でも、方墳でもない。
なぜ、この時代の天皇たちは八角形という形を選んだのでしょうか。
そこには、古墳時代の「大王」から律令国家の「天皇」へと変わっていく、新しい権威の姿が見えてきます。
牽牛子塚古墳|八角形の「あさがお塚」
牽牛子塚古墳は、奈良県明日香村越の丘陵上に位置する終末期古墳です。
古くから「あさがお塚古墳」「御前塚」とも呼ばれてきました。
「牽牛子」とはアサガオを意味します。
八角形の墳丘がアサガオの花を思わせることから、「あさがお塚」と呼ばれ、その呼び名にちなんで「牽牛子」の名が使われるようになったとされています。
以前から特殊な石槨を持つ古墳として知られていましたが、本格的な調査によって、その姿は大きく塗り替えられました。
平成21年(2009年)から行われた発掘調査によって、墳丘が八角形であることが明確になったのです。
現在では、対辺約22メートル、高さ4.5メートル以上の八角墳だったと考えられています。
この発見によって、以前から唱えられていたある説が、さらに注目されることになりました。
第37代・斉明天皇の陵ではないか。
という説です。
一つの巨石に造られた、二つの墓室
牽牛子塚古墳で驚かされるのが、その埋葬施設です。
石室は、二上山周辺から運ばれたと考えられる巨大な凝灰岩を一つ丸ごとくり抜いて造られた横口式石槨です。
内部の中央には仕切り壁が設けられ、左右に一室ずつ、二つの墓室が造られています。
つまり、最初から二人を葬ることを想定した構造だった可能性があります。
石槨からは、麻布を漆で何重にも貼り重ねて造る夾紵棺の破片や、七宝飾金具、ガラス玉、人骨片などが確認されています。
この「二人を葬るための墓」という特徴が、『日本書紀』の記事と重なります。
『日本書紀』には、斉明天皇が娘の間人皇女とともに葬られたことが記されています。
そのため現在では、牽牛子塚古墳を斉明天皇と間人皇女の合葬墓とみる説が有力です。
ただし、宮内庁が斉明天皇陵として治定している陵墓は別の場所にあります。
ですから、「牽牛子塚古墳=斉明天皇陵」と断定するのではなく、
考古学的には非常に有力な候補とされている。
そう理解しておくのがよさそうです。
すぐ隣から現れた越塚御門古墳
牽牛子塚古墳の調査では、さらに驚く発見がありました。
平成22年(2010年)、墳丘の南東側から新たな古墳が発見されたのです。
それが越塚御門古墳です。
牽牛子塚古墳に寄り添うように造られた小規模な古墳で、こちらも巨石をくり抜いた横口式石槨を持っています。
この発見によって再び注目されたのが、『日本書紀』天智天皇6年(667年)の記事です。
そこには、斉明天皇と間人皇女を合葬し、その陵の前に斉明天皇の孫にあたる大田皇女を葬ったことが記されています。
斉明天皇。
その娘、間人皇女。
そして孫の大田皇女。
もし牽牛子塚古墳と越塚御門古墳がこの記録に対応するとすれば、三人の女性が世代を越えて同じ場所に眠っていることになります。
もちろん、これも確定したわけではありません。
それでも、古代の記録と発掘された遺構がここまで重なってくると、1400年前の出来事が急に現実味を帯びて感じられます。
現在の牽牛子塚古墳と越塚御門古墳は復元整備され、令和4年(2022年)3月から一般公開されています。
天武・持統天皇陵古墳|夫婦が眠る八角古墳
牽牛子塚古墳から東へ。
明日香村野口にあるのが、天武・持統天皇陵古墳です。
「野口王墓」とも呼ばれ、宮内庁によって「檜隈大内陵」として、第40代・天武天皇と第41代・持統天皇の陵に治定されています。
7世紀後半に築かれた、対辺約42メートルの八角墳です。
『日本書紀』によれば、天武天皇は朱鳥元年(686年)に崩御し、その後、陵の造営が進められ、688年に葬られました。
さらに『続日本紀』には、大宝3年(703年)、火葬された持統天皇が天武天皇の陵に合葬されたことが記されています。
夫である天武天皇と、その政治を引き継いだ持統天皇。
二人は死後も、同じ陵に眠ることになったのです。

盗掘が残した、皮肉な「証拠」
天武・持統天皇陵古墳には、少し不思議な歴史があります。
この陵は、文暦2年(1235年)に盗掘を受けました。
普通ならば、歴史にとって大きな損失です。
ところが、この盗掘事件の際に陵の内部を実際に確認した記録が残されました。
それが『阿不幾乃山陵記』です。
そこには、陵が八角形であったことや石室内部の様子、棺や金属製の容器が置かれていたことなどが記録されていました。
天武天皇は従来の葬法によって葬られ、火葬された持統天皇の遺骨は骨蔵器に納められた。
その内容が『日本書紀』『続日本紀』の記事ともよく一致します。
この記録などをもとに、明治14年(1881年)、現在の野口王墓が天武・持統天皇陵として治定されました。
天皇陵は原則として自由な発掘調査ができません。
それにもかかわらず、この陵の被葬者が学術的にもほぼ確実視されているのは、中世の盗掘という思いがけない出来事が詳細な記録を残したためなのです。
歴史というものは、ときどき皮肉な形で真実を伝えてくれます。
持統天皇は、最初に火葬された天皇
天武・持統天皇陵でもう一つ重要なのが、火葬です。
持統天皇は、日本の天皇として初めて火葬された人物とされています。
それまでの古墳では、人の身体を納めるため大きな棺と、それを収める広い墓室が必要でした。
しかし火葬された遺骨であれば、小さな骨蔵器に納めることができます。
この変化は、単なる葬儀方法の違いではありません。
背景には、仏教文化の定着という大きな時代の変化がありました。
そして、次回訪ねる中尾山古墳になると、石室そのものが骨蔵器を納めることを前提とした小さな構造へと変わっていきます。
古墳そのものが、終わりへ向かい始めていたのです。
なぜ「八角形」だったのか
ここで改めて考えてみたいのが、
なぜ八角形なのか。
ということです。
八角形の墳丘は、飛鳥時代の王陵・天皇陵にごく限られて現れる、特別な形でした。
現在の研究では、中国の宇宙観や政治思想から影響を受けながら、日本独自の王墓形式としてつくり出されたと考えられています。
「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産としての評価でも、この八角墳は、中央集権国家の成立とともに生まれた新しい天皇の権威を示す墓制として重要視されています。
それまで、巨大な前方後円墳を築くことは、有力豪族たちも共有していた文化でした。
しかし国家の仕組みが整えられ、「天皇」を頂点とする政治体制が形づくられていくと、
天皇の墓は、豪族の墓とは違うものでなければならない。
そんな考えが生まれていったのでしょう。
そこで選ばれた形の一つが、八角形でした。
古墳の形が、国家の変化を語る
明日香村には、牽牛子塚古墳、天武・持統天皇陵古墳、そして次回訪ねる中尾山古墳という八角墳が残されています。
一つ一つを見ると、それぞれ異なる墓です。
しかし時代の流れの中に並べると、そこには共通したものが見えてきます。
豪族たちが巨大古墳を競って築いた時代から、
天皇だけが特別な八角形の陵を造る時代へ。
そして持統天皇の火葬を経て、やがて巨大な古墳そのものを造らなくなる時代へ。
墓の形が変わっただけではありません。
国の形そのものが変わっていたのです。
飛鳥の終わりが近づいてくる
牽牛子塚古墳には、斉明天皇と間人皇女、そしてその傍らには大田皇女が眠る可能性があります。
天武・持統天皇陵には、激動の壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇と、その国家づくりを受け継いだ持統天皇が眠っています。
母と娘。
祖母と孫。
そして夫と妻。
巨大な政治の物語の中にいた人物たちも、最後には家族のそばに葬られました。
八角形という特別な形は天皇の権威を示す一方で、その中に眠るのは、私たちと同じように家族を持ち、別れを経験した人間でもあります。
飛鳥を歩いていると、歴史上の人物がふっと「人」に戻る瞬間があります。
私は、そんな瞬間が好きです。
そして、この八角墳の物語も、いよいよ最後へ向かいます。
一一情報・交通一一
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳/奈良県明日香村越にあります。近鉄🚃飛鳥駅から徒歩でも訪れることができます。復元整備された八角形の墳丘と埋葬施設を間近に見学できます。
天武・持統天皇陵古墳/明日香村野口に位置します。宮内庁管理の陵墓のため墳丘内部へ入ることはできませんが、拝所から参拝できます。
秋の陽を感じながらの🚴♀️レンタサイクルも楽しめます。
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