京都・太秦の広隆寺へ。国宝・弥勒菩薩半跏思惟像の微笑みの奥には、秦氏、薬師信仰、そして聖徳太子信仰へと続く千年以上の祈りの歴史がありました。
飛鳥の寺社を歩いていると、聖徳太子ゆかりの地は奈良だけではないことに気づかされます。
斑鳩の法隆寺、明日香の橘寺。そして今回訪ねるのは、京都・太秦の広隆寺です。
嵐電「太秦広隆寺」駅を降りると、目の前には大きな楼門。
路面電車がごとごとと走り、自動車が行き交う現在の京都の町。そのすぐ向こうに、飛鳥時代へとつながる寺院がある。
この取り合わせが、なんとも太秦らしく感じられます。
広隆寺といえば、まず思い浮かぶのが国宝・弥勒菩薩半跏思惟像でしょう。
けれど寺の歴史を少し深くたどってみると、ここは「弥勒菩薩のお寺」という一言だけでは収まりません。
弥勒への祈りがあり、薬師如来への信仰が重なり、やがて聖徳太子そのものへの信仰が大きく育っていく。
広隆寺には、日本で仏教が受け入れられてから千年以上にわたって、人々が何を仏に願ってきたのか、その移り変わりまで残されているように思えます。
太秦に残る、京都最古の寺
広隆寺は京都市右京区太秦にあります。
『日本書紀』推古天皇11年(603年)の条には、聖徳太子が
「私のもとに尊い仏像がある。誰かこの像を敬い祀る者はいないか」
と臣下に問い、秦河勝(はたのかわかつ)がこれを受けたという記事があります。
この仏像を祀るために秦河勝が寺を建立したことが、広隆寺の始まりと伝えられてきました。
京都市の案内でも、603年創建とする伝承に基づき「京都最古の寺院」と紹介されています。一方、古い縁起には推古天皇30年(622年)建立とする記録もあり、創建の詳しい経緯にはいくつかの考え方があります。(京都観光Navi)
ここで欠かせないのが秦氏です。
秦氏は、古代の葛野一帯に勢力を持った渡来系氏族でした。
太秦という土地そのものが秦氏と深く結びついており、広隆寺もまた秦氏の氏寺として育まれていきます。
秦氏について書き始めると、それだけで一本の記事になってしまいます。
この話は、また番外編で。
今はただ、広隆寺の楼門の向こうには、聖徳太子だけでなく、古代京都を築いていった秦氏の記憶も眠っている——そう思いながら境内へ入ってみます。

弥勒菩薩の微笑み
霊宝殿に入ると、広隆寺を代表する数々の仏像が迎えてくれます。
その中心に安置されているのが、木造弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)です。
右足を左腿に乗せ、右手の指先をそっと頬に近づける半跏思惟の姿。
目を伏せ、ほんのわずかに微笑んでいるようにも見えます。
見ていると、こちらに何かを語りかけているというより、自らの内側へ深く沈み込んで考えているようにも感じられます。
何を考えておられるのでしょう。
弥勒菩薩は、釈迦の入滅後、遠い未来にこの世界へ現れ、人々を救うと説かれた未来仏です。
その未来とは、仏教では56億7千万年後。
気が遠くなるほど先の話です。
それでも人々は弥勒を信じました。
「今すぐではなくても、いつか救いは訪れる」
その約束そのものが、苦しい時代を生きる人々には希望だったのかもしれません。
広隆寺の弥勒像は、文化財保護法による新しい国宝制度が始まった際、最初期に国宝となり、「国宝第1号」として広く知られています。正確には同日に多数の文化財が国宝指定され、その中で彫刻部門の第1号にあたります。(京福電気鉄道)
また古い広隆寺の資財記録には、弥勒像について「太子本願御形」と記されたものがあり、現在の宝冠弥勒にあたると考えられています。
聖徳太子の願いと弥勒信仰。
二つは、かなり早い時期から結びついていたようです。
この像を前にすると、秦河勝や古代の人々が、この静かな微笑みにどのような未来を託したのだろう、と考えてしまいます。
弥勒から薬師へーー人々が願った「今ここ」の救い
広隆寺の面白さは、長い歴史の中で信仰が一つに固定されていなかったことにもあります。
弘仁9年(818年)、広隆寺は大火によって焼失しました。
その後、寺が再建されていくなかで、薬師如来への信仰が強くなっていきます。
薬師如来は病を癒やし、災いを除き、この世を生きる人々を救う仏です。
遠い未来の救済を象徴する弥勒に対して、薬師如来は「今、この瞬間の苦しみ」に寄り添ってくださる存在ともいえるでしょう。
実際、平安時代の広隆寺では薬師如来の霊験が広く知られ、身分を問わず多くの人々が参詣したとされています。(コトバンク)
ここで「弥勒信仰が薬師信仰に置き換わった」と考えるよりも、
弥勒への願いの上に、薬師への願いが重なった。
そう見る方が、広隆寺には合っているように思います。
未来への希望も欲しい。
けれど、今日の病も治してほしい。
千年前の人間も、たぶんそこは私たちとあまり変わらなかったのでしょう。

そして聖徳太子そのものが信仰の中心へ
さらに時代が進むと、広隆寺では聖徳太子信仰が大きくなっていきます。
現在の本堂にあたるのが、上宮王院太子殿。
享保15年(1730年)に建立された堂内には、聖徳太子33歳の姿を表したとされる聖徳太子像が本尊として祀られています。(Japan Heritage)
この太子像には、とても興味深い伝統があります。
天皇の即位に際して調進されたものと同様の黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が寄進され、聖徳太子像に着せられてきたのです。
黄櫨染御袍は、天皇が重要な儀式で着用する束帯の袍。
太子像にその装束を着せるという習慣そのものが、聖徳太子が後世にどれほど特別な存在として仰がれてきたかを物語っています。(京都大学学術出版会)
そしてこの聖徳太子像は、毎年11月22日に開扉されます。(コトバンク)
広隆寺から法隆寺夢殿の救世観音を思う
ここで、私は法隆寺の夢殿を思い出します。
夢殿の本尊は、秘仏・救世観音菩薩立像。
聖徳太子の等身像とも伝えられ、太子信仰と深く結びついてきた仏像です。
もちろん、広隆寺の聖徳太子像と法隆寺の救世観音が、直接一つの系譜で結ばれているというわけではありません。
けれど、二つの寺を歩いていると、
聖徳太子は、いつしか歴史上の皇子というだけでなく、人々を救う存在として信仰されるようになった
という大きな流れが見えてきます。
法隆寺では観音の姿に太子を重ね、広隆寺では太子そのものの姿を本尊として拝む。
形は違っても、その奥には同じ太子信仰の世界が広がっています。
法隆寺夢殿の救世観音は、現在も春は4月11日から5月18日、秋は10月22日から11月22日まで特別開扉されます。(horyuji.or.jp)
秋の開扉最終日と、広隆寺の太子像開扉の日が、ともに11月22日。
偶然の日付として見ることもできます。
けれど二つの寺を訪ねてきた者には、この日付までどこか一本の糸で結ばれているように感じられます。

広隆寺で見えてきたもの
広隆寺へ来る前、私の頭にあったのは、やはり弥勒菩薩でした。
けれど境内を歩き、寺の歴史を追っていくうちに、見えてきたものはそれだけではありませんでした。
弥勒菩薩に未来の救いを願った人々。
薬師如来に病気平癒と現世の安らぎを願った人々。
そして聖徳太子そのものを、人々を救う存在として仰いだ人々。
一つの信仰が消えて次の信仰へ移ったのではなく、願いが少しずつ積み重なって、現在の広隆寺をつくってきたのでしょう。
楼門を出れば、また目の前を嵐電が走っています。
二十一世紀の京都の日常と、飛鳥時代から続く祈りの場所。
その距離が、驚くほど近い。
それが広隆寺という寺の、不思議なところなのかもしれません。
そしてもう一つ。
この寺を語るうえで、どうしても避けて通れない人々がいます。
秦氏です。
なぜ秦氏はこの太秦の地にいたのか。
彼らは古代京都で、いったい何をしたのか。
広隆寺から松尾大社、そして平安京へ——。
この続きは、またいつか番外編で辿ってみたいと思います。
一一情報・交通一一 京都市太秦八岡町32
嵐電🚃「太秦広隆寺」→徒歩🚶➡️1分/市🚌バス・京都🚌バス「太秦広隆寺」→徒歩🚶➡️1分
🅿️有り(霊宝殿拝観者用)
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番外編
飛鳥寺名変歴/聖徳太子と推古天皇/大化の改新/藤原宮跡/他
奈良時々京都|本編
法隆寺/東大寺/橘寺/飛鳥・藤原の宮都/他
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