藤原宮跡とは何か|日本初の本格的都城・藤原京

奈良。時々京都。

大和三山に囲まれた広大な藤原宮跡。かつてここには、日本初の本格的な都城・藤原京の政治中枢がありました。何もない風景の下に眠る、古代国家の始まりをたどります。

前回は、盛り土を失い、巨石の石室をむき出しにした石舞台古墳を通して、飛鳥という時代における権力の姿を見てきました。

今回はいよいよ、飛鳥の先にある「都城」の時代へと歩みを進めます。

訪れるのは、日本で初めて本格的な中国式の都城として築かれた藤原京。その中枢にあった藤原宮跡です。

飛鳥の宮が、時代の移り変わりとともに造り替えられ、政治の舞台も変化してきたのに対し、藤原京では、あらかじめ都市全体を計画して造るという新しい考え方が取り入れられました。

道路を通し、宅地を区画し、その中心に政治の中枢を置く。

これは単に大きな宮殿を造ったということではありません。

「国をどのような形で治めるのか」という考え方そのものを、都市の姿として表そうとしたのです。

古代国家が成熟へと向かう、大きな一歩でした。

藤原宮跡とは何か

藤原宮跡は、奈良県橿原市高殿町を中心に広がる、藤原京の政治中枢が置かれていた場所です。

藤原京は694年、持統天皇が飛鳥浄御原宮からこの地へ遷ったことで始まりました。

その後、文武天皇、元明天皇へと引き継がれ、710年に平城京へ遷都するまでの16年間、日本の都として機能します。

藤原宮は、その藤原京のほぼ中央に置かれた約1キロメートル四方の広大な宮殿でした。

天皇の生活の場である内裏をはじめ、国家的な儀式を行う大極殿や朝堂院、行政の実務を担う官衙などが集められていました。

今風にたとえるなら、皇居と国会議事堂、霞が関の官庁街を一つに集めたような場所だった、と考えると少しイメージしやすいかもしれません。

藤原京全体は東西約5.2キロメートル、南北約4.8キロメートルにも及び、その規模は後の平城京や平安京と比べても非常に大きなものでした。

人口は約3万人と推定されています。

道路によって整然と区画された町に人々が暮らし、官人たちはそこから宮へ通う。

飛鳥の谷あいに宮や寺院が点在していた時代から、いよいよ「都市に暮らす」という新しい生活の形が始まったのです。

長い間、場所さえわからなかった藤原宮

これほど大規模な都でありながら、藤原宮が実際にどこに存在したのかは、長いあいだはっきりしていませんでした。

転機となったのは昭和8年(1933年)。

現在の大宮土壇付近で、小学校の新校舎を建設する際、瓦や礎石とみられる石材、加工された凝灰岩などが発見されました。

翌年から本格的な発掘調査が始まり、大極殿や朝堂院などの遺構が次々と確認されていきます。

さらに昭和41年(1966年)以降の調査では、宮を囲んでいた大垣や濠などが見つかり、藤原宮がおよそ1キロメートル四方の規模を持つことが明らかになりました。

現在は国の特別史跡に指定され、2026年に世界文化遺産へ登録された「飛鳥・藤原の宮都」を構成する重要な資産の一つとなっています。

世界遺産としての構成資産番号はNo.13。

広大な藤原京の中でも、律令国家の成立を最も象徴的に物語る場所です。

藤原宮が営まれたわずか16年間に、日本の歴史を大きく変える出来事がありました。

701年、大宝律令が制定されます。

それまで整えられてきた政治制度が、律令という国家の基本法によって体系化され、中央集権的な国家の形がさらに明確になっていきました。

702年には、およそ30年ぶりとなる遣唐使も派遣されています。

こうした時代を通して、日本は東アジアの国々との関係の中で、自らを一つの国家として位置づけていきました。

藤原京は、まさにその変化の舞台だったのです。

宮殿そのものにも、新しい国家の姿が表れていました。

藤原宮では、宮殿建築に瓦葺きが本格的に採用されました。

巨大な大極殿や朝堂院、門、塀などが整えられ、飛鳥の宮々とは明らかに異なる、国家の威厳を目に見える形で示す空間が造られていきます。

地方から集められた多くの人々が造営に携わり、木材や瓦をはじめとする大量の資材が運び込まれました。

一つの都を造るという事業そのものが、中央集権国家の力を示していたのかもしれません。

なぜ藤原京は特別なのか

藤原京の大きな特徴の一つが、条坊制です。

条坊制とは、東西・南北に道路を通し、都市を碁盤の目のように区画していく都市計画の方法です。

道路には側溝も設けられ、排水機能も備えられていました。

宅地は身分や位階などに応じて配置され、官人や人々が暮らしました。

そこには、政治制度だけではなく、人々の暮らしまで含めて都市全体を計画しようとする考え方が見えてきます。

そして藤原京には、もう一つ大きな特徴があります。

藤原宮が、京のほぼ中央に置かれていることです。

後の平城京などとは異なるこの配置について、中国の古典『周礼』に記された理想的な都城の考え方を参考にしたのではないか、という説があります。

唐の長安をそのまま写したのではなく、大陸から得た知識を日本なりに選び、組み替えながら新しい都を造ろうとした。

そう考えると、藤原京は単なる「中国のまね」ではありません。

新しい国家をどのような姿にするのか。

古代の人々が考え、試し、形にしようとした巨大な実験都市だったようにも思えてきます。

遠景の大和三山

大和三山に囲まれた宮跡

藤原宮跡に立って、ぜひ周囲を見渡してみてください。

耳成山。

畝傍山。

そして天香久山。

大和三山が、藤原宮を囲むように見えてきます。

『万葉集』には、この藤原宮から望む山々を詠んだ「藤原宮御井歌」が残されています。

当時の人々にとって、山々は単なる美しい風景ではなかったのでしょう。

宮都を取り囲み、見守る存在として意識されていたとも考えられています。

なぜこの場所が都として選ばれたのか。

その答えの一つが、この場所に実際に立って三山を眺めてみると、ほんの少し分かるような気もします。

1300年以上前に宮に仕えた人々も、同じ山を眺めていた。

そう思った瞬間、広い空き地だった景色が少し違って見えてきます。

藤原宮跡の見どころ

現在の藤原宮跡には、かつての宮殿建築そのものは残っていません。

朱塗りの列柱が一部で再現され、大極殿跡などが整備されていますが、目の前に広がるのは、とにかく広い空と大地です。

最初に訪れると、

「ここが本当に日本の政治の中心だったのだろうか」

と思うかもしれません。

けれども、この「何もない」という感覚こそ、藤原宮跡のおもしろさなのではないでしょうか。

奈良文化財研究所による発掘調査は現在も続いています。

近年の調査によって、大極殿を囲んでいた回廊や大極殿後方の建物なども明らかになり、藤原宮の姿は少しずつ具体的になってきました。

大極殿院は東西約120メートル、南北約165メートルにも及ぶ大規模な区画だったことが分かっています。

その中央に建つ大極殿では、即位や元日朝賀など、国家の重要な儀式が行われました。

広場に官人たちが整列し、その先に巨大な瓦葺きの大極殿がそびえていた。

今の静かな風景からは想像しにくいほど、緊張感に満ちた政治空間だったことでしょう。

目の前には何もありません。

けれど、その地下には今も、宮殿の柱跡や溝、道路、建物の痕跡が眠っています。

「何もないから、想像する」。

それもまた、藤原宮跡の歩き方だと思います。

古代の宮跡を彩る四季の花

この場所をさらに印象深いものにしているのが、四季の花々です。

春には、醍醐池の北側を中心に菜の花が咲き、桜と見頃が重なれば、大和三山を背景に鮮やかな春景色が広がります。

夏にはハナハス。

そして秋にはコスモス。

広い宮跡一面を花々が彩ります。

今では「花の名所」として藤原宮跡を知った方も多いかもしれません。

この花園は、古代の遺跡をより多くの人に親しんでもらおうと、橿原市と地域の人々が長年続けてきた取り組みです。

かつて国家の政治と儀礼の中心だった場所に、今は家族連れやカメラを手にした人々が集まり、花を眺めています。

1300年という時間を考えると、それもなんとも不思議な風景です。

権力の中心だった土地が、今は静かに花を咲かせ、人々の憩いの場所になっている。

それも藤原宮跡の、もう一つの姿なのでしょう。

藤原京はなぜ、わずか16年で終わったのか

それにしても気になります。

ーー「藤原京がわずか16年で都としての役割を終えた理由については、現在もさまざまな説があります。この点については、また番外編でじっくり考えてみたいと思います。」ーー

これほど広大な都を造りながら、なぜ藤原京はわずか16年で都としての役割を終えたのでしょうか。

これについては、現在も一つの理由だけで説明することはできません。

藤原京の設計や交通、排水など都市としての条件に問題があったのではないか。

702年に再開された遣唐使によって、唐の都城について新しい情報がもたらされ、それを取り入れた新たな都が求められたのではないか。

また、律令国家が整備されていく中で、政治体制の変化が遷都を後押ししたのではないか。

さまざまな説があります。ーーこの辺は番外編でーー

708年、元明天皇は平城京への遷都を命じ、710年、都は奈良盆地北部へ移ります。

藤原京は、その役割を終えました。

けれど、藤原京で試みられた都市計画や宮殿配置、国家儀礼のための空間などが消えてしまったわけではありません。

そこで得られた経験は平城京へ、そしてさらに後の都へと受け継がれていきます。

藤原京は短命な都でした。

しかし失敗した都だったとは、とても言えないと思います。

むしろ日本が初めて、本格的な計画都市を造り上げた場所。

その経験があったからこそ、次の平城京へ進むことができたのでしょう。

「何もない」からこそ見えてくるもの

飛鳥の宮々で積み重ねられてきた政治と国家づくりの試行錯誤。

その先に、一つの大きな到達点として藤原京が生まれました。

宮だけを造るのではなく、道路を引き、人々の住む場所を定め、役所や寺院を配置し、都市そのものを計画する。

古代日本はここで、初めて「都とは何か」を本格的に形にしようとしたのだと思います。

そして、その中心が藤原宮でした。

現在、目の前に壮麗な大極殿はありません。

朱塗りの楼門もありません。

ただ広い空があり、草原があり、その向こうに大和三山が見えています。

けれど、そこで少し立ち止まってみる。

1300年以上前、この場所を官人たちが歩き、朝廷の儀式に向かい、役所では木簡を手に人々が働いていた。

遠くから運ばれてきた瓦を葺く音が響き、都の道路には人や荷が行き交っていた。

そう想像してみると、不思議なことに、何もないはずの風景が少しずつ賑やかになってきます。

耳を澄ませば、千年以上前にここを行き交った人々の足音や、ひそひそと交わされた声が、風に乗って聞こえてくるような気さえしてきます。

遺跡とは、建物が残っている場所だけではない。

見えなくなったものを想像する場所でもある。

藤原宮跡に立つと、そんなことを思います。



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