中尾山古墳とキトラ古墳・高松塚古墳|終末期古墳が語る、飛鳥の終わりと「日本」の成立へ

奈良。時々京都。

八角墳から火葬墓へ――。中尾山古墳と高松塚・キトラ古墳を歩き、飛鳥時代の終わりと新しい「日本」の始まりを見つめます。

前回は、八角形という特別な墳形を持つ牽牛子塚古墳と天武・持統天皇陵古墳を訪ね、豪族たちも共有していた古墳の世界から、天皇の墓が特別な形を持つ時代へと移っていく過程をたどりました。

今回はいよいよ、この連載でめぐってきた世界文化遺産「飛鳥・藤原の宮都」19の構成資産、その最後の一つを訪ねます。

中尾山古墳。

そして、その近くの丘陵に眠る高松塚古墳、キトラ古墳にも再び目を向けながら、飛鳥時代という長い物語がどのように終わり、新しい国家の時代へつながっていったのかを見つめてみたいと思います。

中尾山古墳|最後に残された八角墳

中尾山古墳は、奈良県明日香村平田の丘陵上にあります。

高松塚古墳のある丘陵とは谷を隔てた北側に位置し、古くは「中尾石墓」とも呼ばれていました。

江戸時代の地誌『大和志』には、この場所を文武天皇陵とする記述も残されています。

昭和49年(1974年)の発掘調査で八角形の墳丘を持つことが確認され、その後、令和2年(2020年)に明日香村教育委員会と関西大学が再び発掘調査を実施しました。

そこで、さらに詳しい姿が明らかになります。

墳丘は三段築成の八角墳。

下段と中段には川原石などを用いた基壇状の石積みが施され、上段は版築による盛土で形づくられていました。

さらに、その周囲には三重の外周石敷がめぐっていたことも確認されています。

それほど巨大な古墳ではありません。

しかし、一つ一つの石を丁寧に積み、八角形という形を正確につくり出すためには、相当な労力と高い技術が必要だったはずです。

大きさだけではない。

ここには、それまでとは違う形で権威を表そうとする、新しい時代の墓づくりが見えてきます。

中尾山古墳

わずか90センチ四方の墓室

そして中尾山古墳で、さらに驚かされるのが埋葬施設です。

墓室は、凝灰岩や花崗岩の切石を組み合わせた横口式石槨。

十個の石材を精密に組み合わせて造られています。

ところが、その内部は約90センチ四方しかありません。

人を横たえて葬るには、あまりにも小さい空間です。

壁面は丁寧に磨き上げられ、内部には水銀朱が塗られていました。

そして床石の中央には、約60センチ四方の窪みが設けられています。

この窪みには、火葬された遺骨を納めた骨蔵器を安置するための台座が置かれていたと考えられています。

つまり、この墓室は最初から、

人の身体を納めるためではなく、火葬した遺骨を納めるために造られた。

その可能性が高いのです。

ここまで来ると、前回訪ねた天武・持統天皇陵とのつながりが見えてきます。

持統天皇は、日本の天皇として初めて火葬されたと伝えられる人物でした。

その後の中尾山古墳では、墓そのものが火葬を前提とする形へ変化していたのです。

墳丘の頂を飾った石造物

令和2年の調査では、墳丘周辺から沓形石造物と呼ばれる凝灰岩製の石造物も確認されました。

その形状などから、かつて墳丘の頂部を飾っていたと考えられています。

巨大さを競うのではなく、八角形の墳丘を精密につくり、周囲を石で整え、頂部には装飾まで施す。

中尾山古墳は、古墳時代の終わりに現れた墓でありながら、決して簡素になったわけではありません。

むしろ、

小さくなった墓室に、より凝縮された権威が込められた。

そんな印象さえ受けます。

イメージっ画像(コねこ作)
イメージ画像(コねこ作)

文武天皇は、ここに眠るのか

では、中尾山古墳には誰が葬られたのでしょうか。

現在、最も有力視されているのが第42代・文武天皇です。

文武天皇は天武天皇と持統天皇の孫にあたり、慶雲4年(707年)に若くして崩御しました。

『続日本紀』には、文武天皇が飛鳥岡で火葬され、その後「檜隈安古山陵」に葬られたことが記されています。

文武天皇の時代には、大宝元年(701年)に大宝律令が制定されました。

天皇を頂点とする律令国家の制度が、いよいよ形を整えていく時代です。

そして、

八角墳であること。

7世紀末から8世紀初頭という築造年代。

火葬骨を納めることを前提とした特殊な石槨。

「檜隈」という立地。

こうした条件を考え合わせると、中尾山古墳を文武天皇陵とみる可能性は非常に高いと考えられています。明日香村も現在、「文武天皇檜隈安古上陵の蓋然性が高い」と説明しています。

ただし、宮内庁が文武天皇陵として治定している陵墓は別の場所にあります。

ですから、

「中尾山古墳こそ真の文武天皇陵である」と断定するのではなく、考古学的には極めて有力な候補である。

ここは、そのように見ておくのがよさそうです。

すぐ近くに眠る高松塚古墳

中尾山古墳から南へ目を向けると、高松塚古墳があります。

昭和47年(1972年)に発見された極彩色壁画によって、日本中に「飛鳥ブーム」を巻き起こした古墳です。

直径約24メートルの円墳で、石室には「飛鳥美人」として知られる女子群像をはじめ、四神、日月、星宿などが描かれていました。

そしてさらに南へ行けば、キトラ古墳があります。

こちらには青龍・白虎・朱雀・玄武の四神、十二支像、日月像、そして東アジアに現存する最古の本格的な天文図が描かれています。

イメージ (作コねこ)
高松塚古墳
キトラ古墳

八角形の中尾山古墳。

壁画を持つ高松塚古墳。

同じく東アジアの宇宙観を石室いっぱいに描いたキトラ古墳。

姿は違います。

しかし三つの古墳はいずれも、7世紀末から8世紀初頭という、飛鳥から藤原へ、そして奈良へと時代が移ろう時期につくられました。

三つの墓から見えてくる東アジア

高松塚古墳やキトラ古墳の壁画には、中国大陸や朝鮮半島との交流によってもたらされた思想や技術が色濃く表れています。

空には星々。

四方には四神。

死者の眠る小さな石室の中に、一つの宇宙がつくられていました。

一方、中尾山古墳には華麗な壁画はありません。

しかし、天皇陵に特徴的な八角形の墳丘と、火葬骨を納めるための精密な石槨があります。

ここにあるのは、同じ東アジアの文化を受け入れながら、それを日本独自の国家制度や葬送のあり方へと変えていった姿です。

思えば、この連載で何度も同じことを目にしてきました。

飛鳥寺の伽藍。

飛鳥京跡苑池の庭園。

飛鳥水落遺跡の漏刻。

大官大寺の巨大伽藍。

藤原京の都市計画。

そして高松塚・キトラの壁画。

飛鳥の人々は、大陸や朝鮮半島から新しい文化をただ受け取ったのではありません。

学び、取り入れ、そして自分たちの国の形へと作り変えていった。

中尾山古墳まで歩いてくると、その長い過程がようやく一本につながったように感じます。

古墳時代が静かに終わっていく

文武天皇のあと、元明天皇の時代となる和銅3年(710年)。

都は藤原京から平城京へ遷ります。

そして葬送の世界でも、巨大な墳丘に遺体を納める古墳時代以来の伝統は次第に姿を消し、火葬など仏教の影響を受けた新しい葬法が広がっていきました。

中尾山古墳の90センチ四方という小さな石槨は、その変化を象徴しているように思います。

最初に訪ねた石舞台古墳を思い出してみます。

巨大な石を積み上げ、人が立って歩けるほどの大きな石室を造った墓。

それが約100年ほど後には、骨蔵器一つを納めるための小さな空間へと変わった。

墓の大きさが小さくなったのではありません。

死者を葬るという考え方そのものが変わったのです。

そして、その背景では国家の形も大きく変わっていました。

19の構成遺産をすべて歩いて

これで、飛鳥宮跡から中尾山古墳まで、世界文化遺産「飛鳥・藤原の宮都」19の構成資産をすべてめぐりました。

2026年7月26日、韓国・釜山で開催された第48回世界遺産委員会で、「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産一覧表への記載が正式に決定しました。日本の世界遺産はこれで27件、そのうち文化遺産は22件となりました。

19の構成資産は、大きく三つに分かれています。

宮殿・官衙跡が5資産。

仏教寺院跡が7資産。

墳墓が7資産。

これらを通して、中国大陸や朝鮮半島との交流のもとで、日本列島に中央集権国家が形づくられていった過程を見ることができます。

明日香村には、そのうち15の構成資産があります。

しかし、数字だけを見ても、なかなか実感は湧きません。

実際に歩いてみると、それぞれの場所は驚くほど静かです。

田んぼの脇に礎石がある。

草の生えた丘がある。

川のそばに石が残されている。

説明板がなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうな場所もあります。

けれど、一つ一つをたどっていくと、静かな遺跡同士が少しずつ線でつながっていきます。

宮殿がつくられた。

仏教寺院が建てられた。

時間が管理されるようになった。

都が計画的につくられた。

天皇の墓が特別な形になった。

そして律令によって国を動かす仕組みが整えられていった。

そこに浮かび上がってくるのは、私たちが今「日本」と呼んでいる国が、まだ生まれようとしていた時代の姿です。

飛鳥は、終わらない

この連載を書き始めた頃は、一つ一つの遺跡を紹介していくつもりでした。

けれど歩き続けているうちに、どうもそれだけでは足りなくなってきました。

なぜ仏教を受け入れたのか。

なぜ都を移したのか。

なぜ天皇の墓は八角形になったのか。

そして、その時代を生きた人たちは何を考えていたのか。

遺跡を一つ知るたびに、次の疑問が出てきます。

飛鳥という土地は、知れば知るほど終わらなくなる場所なのかもしれません。

だから、この19資産をめぐる本編はここで終わりますが、飛鳥の物語はまだ終わりません。

聖徳太子。

推古天皇。

蘇我馬子。

山背大兄王。

乙巳の変。

壬申の乱。

藤原京から平城京へ続く国家の物語――。

本編では立ち止まれなかったところへ、今度は番外編として少し寄り道しながら歩いていきたいと思います。

最後の中尾山古墳に立って振り返ると、

「飛鳥・藤原の宮都」は、昔の日本を眺める場所ではありません。

今の日本がどのように生まれてきたのかを、足元から考えることのできる場所なのだと思います。

そしてーーだから歴史は面白い。

一一情報・交通一一 
飛鳥・藤原の宮都|モデルコースをご覧ください

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飛鳥宮都の遷都/渡来仏師・鞍作止利/他
本編|興福寺/葛城古道/石舞台古墳/他
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