大官大寺跡|幻の九重塔、国家が威信ををかけた巨大寺院

奈良。時々京都。

前回は、皇后の祈りから生まれた本薬師寺と、悲劇の宰相・蘇我倉山田石川麻呂が遺した山田寺という、対照的な二つの寺院跡を訪ねました。

今回はさらにその先へ。

飛鳥・藤原の地に築かれた寺院の中でも、国家の威信そのものを形にしたような巨大寺院、大官大寺跡(だいかんだいじあと)を訪ねます。

現在、この地を訪れても、目の前に広がるのは静かな田園風景です。

壮麗な金堂も、巨大な講堂もありません。

空を突くようにそびえていたという九重塔も、もちろん残っていません。

けれども発掘調査によって明らかになった伽藍の規模は、飛鳥・藤原地域に建立された古代寺院の中でも最大級のものでした。

なぜ、これほど巨大な寺院が必要だったのでしょう。

そして、なぜ完成を目前にしながら姿を消してしまったのでしょうか。

大官大寺とは何か

大官大寺跡(構成遺産第14番)は、明日香村から橿原市南浦町にかけて、香具山の南側に広がる国指定史跡です。

「大官大寺」という名が示すように、朝廷と深く結びついた国家寺院でした。

その系譜をたどると、さらに古い時代へとさかのぼります。

寺の起源については、聖徳太子が平群に設けたと伝わる熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)に求める伝承があります。

その後、舒明天皇(第34代)は舒明11年(639年)、百済川のほとりに百済大寺(くだらのおおでら)の造営を始めました。

百済大寺は、天皇が発願した初期の大寺院として重要な存在で、九重塔が建てられたことも『日本書紀』に記されています。

ところが、その造営をめぐっては少し不思議な話も残されています。

近隣の神社の木を伐ったため神の怒りを招き、金堂や九重塔が焼けた――。

そんな伝承です。

史実としてそのまま受け取ることはできませんが、仏教という新しい信仰が国家によって広められていく一方で、その土地には古くから祀られてきた神々への信仰がありました。

この説話を読んでいると、新しい仏教と、それ以前から土地に根づいていた信仰との間にあった緊張まで想像したくなります。

百済大寺の跡と有力視されている桜井市の吉備池廃寺では、この伝承と直接結びつく火災痕跡が確認されているわけではありません。

「祟り」の物語は、後世に語られていく中で形づくられた説話だったのかもしれません。

百済大寺から高市大寺、そして大官大寺へ

壬申の乱に勝利した天武天皇(第四十代)の時代になると、寺は高市郡へ移され、高市大寺と呼ばれるようになります。

そして天武朝には、やがて大官大寺の名が用いられるようになりました。

飛鳥寺、川原寺などとともに国家仏教を支える重要寺院となり、天武天皇の病気平癒を願う誦経が行われるなど、朝廷の祈りを担う寺でもありました。

ところが、ここで歴史は少し複雑になります。

現在残る大官大寺跡の発掘調査からは、主要伽藍の造営時期が天武朝までさかのぼるのではなく、藤原京の時代、それも文武天皇(第四十二代)の頃を中心とする8世紀初頭であったことが明らかになっています。

つまり、天武朝の高市大寺と、現在私たちが「大官大寺跡」として見ている寺院跡は、単純に同じ場所にあったとは考えにくいのです。

天武朝の高市大寺がどこにあったのかについては、現在も研究が続いています。

そう考えると、現在の大官大寺跡は、百済大寺以来続いてきた国家寺院の歴史が、律令国家の完成へ向かう藤原京で到達した、いわば「最終形」だったともいえるでしょう。

幻の九重塔一一藤原京を見下ろした巨塔

大官大寺を語るうえで、どうしても外せないものがあります。

九重塔です。

発掘調査によって明らかになった伽藍は非常に大きく、金堂や講堂は藤原宮の大極殿にも匹敵する規模を持っていました。

講堂も正面九間という巨大な建物でした。

そして伽藍の中にそびえていたのが九重塔です。

その高さについては諸説がありますが、復元研究では約70メートル級の塔であったと考えられてきました。

現代なら超高層建築とは呼べない高さです。

しかし周囲に高い建物など一つもなかった1300年以上前の藤原京を想像してみてください。

田畑と宮殿、寺院が広がる向こうに、九層の屋根を重ねた塔が空へ伸びている。

藤原京を歩く人々は、かなり遠くからでもこの塔を目にしたことでしょう。

それは単なる寺院建築ではありませんでした。

「ここに国家がある」

そう空に向かって示す、巨大な標識のような存在だったのではないでしょうか。

唐や朝鮮半島の国々との交流の中で律令国家を築こうとしていた日本にとって、大寺院と巨大な塔は、仏教への信仰と同時に国家の力を示す象徴でもありました。

現在の大官大寺跡に立つと、その姿はどこにもありません。

だからこそ、香具山を眺めながら、ここに九重塔を置いてみる。

すると突然、何もない田園の上に、1300年前の藤原京の景色が立ち上がってくるような気がします。

完成を目前にして炎に包まれた大伽藍

これほど壮大な大官大寺でしたが、その命は驚くほど短いものでした。

平安時代に成立した史書『扶桑略記』は、和銅4年(711年)に大官大寺が焼失したと伝えています。

かつては、この記録をどこまで信じてよいのか分かりませんでした。

ところが昭和48年(1973年)以降に進められた発掘調査によって、金堂跡などから大量の焼土や焼けた瓦が発見されました。

文献の中にしかなかった「大官大寺炎上」が、考古学の側からも現実味を帯びてきたのです。

さらに興味深いことがあります。

大官大寺は、焼失した時点でも完全には完成していなかったと考えられています。

金堂など主要建物の造営は進んでいましたが、塔基壇の仕上げや回廊などには未完成の部分が残っていました。

国家が総力を挙げて巨大寺院を造っている。

その工事がまだ続いている。

その最中に、炎に包まれたのです。

藤原京そのものも、長く都であり続けることはありませんでした。

和銅3年(710年)、都は平城京へ移ります。

その翌年と伝えられる大官大寺の焼失。

巨大な都を造り、巨大な寺を造りながら、国家はもう次の都へ動き始めていました。

この慌ただしいほどの変化にも、律令国家が形を整えていった時代の勢いが表れているように思えます。

大官大寺は奈良の大安寺へ

しかし、大官大寺の歴史は火災で終わったわけではありません。

平城京への遷都に伴い、その法灯は奈良へ移されます。

それが現在の大安寺へとつながっていきます。

大安寺は平城京を代表する大寺院の一つとなり、のちには南都七大寺に数えられ、多くの僧が学ぶ仏教研究の重要な拠点となりました。

熊凝精舎。

百済大寺。

高市大寺。

大官大寺。

そして、大安寺へ。

もちろん、この系譜には伝承や研究上の議論を含む部分があります。

それでも、寺の名と場所を変えながら、その役割が飛鳥から藤原京、そして平城京へと受け継がれていった流れは、日本の古代国家そのものの歩みと重なって見えます。

消えた礎石と、田園に残る記憶

現在、大官大寺跡(構成第14番遺産)には壮大な礎石群さえほとんど残っていません。

明治22年(1889年)の橿原神宮造営に際し、大きな塔心礎をはじめ多くの礎石が運び出されたためです。

現地に立つと、史跡を示す碑とわずかな土壇、その向こうに田園が広がっています。

少し前に訪ねた本薬師寺跡には、今も塔や金堂の礎石が残っています。

それに比べると、大官大寺跡はさらに想像力を求められる遺跡です。

けれど、それも遺跡を歩く面白さなのかもしれません。

何もないから、何もなかったのではありません。

むしろ、あまりにも大きなものが、ここにはあった。

出土した瓦などは飛鳥資料館などで見ることができます。

現地を歩いたあとに資料館を訪ねれば、水田の中ではつかみにくかった大官大寺の姿が、少しずつ具体的になってくるでしょう。

世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」を構成する大官大寺跡

大官大寺跡は、2026年7月26日に世界遺産一覧表への記載が決定した「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産の一つです。

飛鳥・藤原の宮都には、宮殿、寺院、古墳など、日本で中央集権国家が形づくられていく過程を伝える遺跡が残されています。

その中で大官大寺跡は、国家と仏教との結びつきが巨大な寺院建築として表された場所です。

熊凝精舎から百済大寺、高市大寺、大官大寺、そして大安寺へ――。

幾度も名を変え、場所を変えながら続いていった寺の歴史をたどっていると、仏教を国家の祈りとし、同時に国家の威信を示す力として取り込んでいった古代日本の姿が見えてきます。

今では水田の中に静かに眠る大官大寺跡。

目を閉じれば、その空に九層の屋根を重ねた巨大な塔が立ち上がります。

1300年前、人々もまたここから塔を見上げていたのでしょう。

建物は消えても、その高さまで失われたわけではありません。

何もない空だからこそ、かつてそこにあったものを想像できる。

大官大寺跡は、そんな遺跡でした。

現地は現在、建物のない史跡です。

香具山や藤原宮跡、本薬師寺跡などと一緒に歩けば、大官大寺が「藤原京」という都市の中にどのように置かれていたのかを想像しやすくなります。

目の前の風景だけを見るのではなく、そこに九重塔を一本、心の中で建ててみてください。

大官大寺跡の面白さは、そこから始まります。


一一情報・交通一一
大官大寺跡/香具山南側の田園地帯にあります。
近鉄🚃橿原神宮前駅方面からバス🚌を利用「木之本町」徒歩🚶14分。「飛鳥資料館」徒歩🚶16分周辺の飛鳥・藤原地域の史跡とあわせて巡るのがおすすめです。
橿原神宮前駅又は飛鳥駅からレンタカーも(現地に駐車場🅿️無)
広大な水田の中に史跡を示す石碑が建つのみですが、秋の彼岸の頃には道沿いに彼岸花が。往時の壮大 伽藍を想像しながら散策するにはうってつけの季節です。
天香久山や甘樫丘からもほど近く、飛鳥めぐりのコースに組み込みやすい立地といえるでしょう


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