五重塔の令和大修理と興福寺の魅力

奈良。時々京都。

今しか出会えない、五重塔修理中の興福寺へ。
藤原氏の栄華と祈りの歴史をたどりながら、1300年を超える時間の中を歩きます。

五重塔の令和大修理と、藤原氏が築いた奈良の歴史

奈良の興福寺を歩いていると、古い建物を見学しているというより、時間そのものの中を歩いているような感覚になります。

奈良公園から聞こえてくる鹿の声。境内を行き交う人々。朱色の堂宇と、土の上に残された礎石。そして現在、巨大な素屋根に覆われている五重塔——。

見慣れた奈良の風景の中に、今だけしか見ることのできない興福寺の姿があります。

五重塔は現在、明治35年(1902年)以来、約120年ぶりとなる大規模な保存修理の真っ最中。

屋根瓦の葺き替えや木部の修理、漆喰壁の塗り直しなどが行われ、修理の完了は2031年の予定とされています。

修理が始まると聞き、今しか見られないと思い完成した五重塔を見ることは、もちろん楽しみです。

けれど、塔が覆われ、修理を受けている「途中の姿」に出会えるのも、長い歴史の中ではほんのわずかな時間です。

100年生きても、出会えないかもしれない風景。

今回は、そんな令和大修理の興福寺を歩きながら、その成り立ちや藤原氏の権勢、そして境内に残された仏様たちを訪ねます。

五重塔大修理の準備が始まる
大屋根修理が始まる

興福寺の始まりは、奈良ではなく京都・山科

興福寺の物語は、奈良ではなく、現在の京都市山科区付近(山階)から始まります。

天智天皇8年(669年)、藤原鎌足が重い病に伏したとき、夫人の鏡女王が夫の回復を願い、仏殿の建立を発願しました。

そこには、鎌足が造立した釈迦三尊像や四天王像が安置され、土地の名にちなんで「山階寺(やましなでら)」と呼ばれたと伝えられています。

その後、壬申の乱を経て都が飛鳥へ戻ると、寺も大和国高市郡の厩坂へ移され、「厩坂寺(うまやさかでら)」と呼ばれるようになります。

そして和銅3年(710年)、平城京への遷都にともない、藤原鎌足の子・藤原不比等の計画によって現在の地へ移され、「興福寺」と名づけられました。

一人の病気平癒を願う祈りから始まった寺が、やがて藤原氏の氏寺となり、奈良を代表する大寺院へ成長していったのです。

興福寺の境内に立つと、家族を思う小さな祈りと、国家や政治を動かす大きな歴史が、同じ場所に重なっていることに気づかされます。

藤原氏の氏寺から、大和国を動かす巨大組織へ

奈良時代の興福寺は四大寺の一つに数えられ、平安時代には南都七大寺の一つとして栄えました。

藤原氏の氏寺として、皇室や藤原氏から強力な支援を受け、境内には数多くの堂塔が建ち並びます。

しかし、中世の興福寺は、祈りや仏教教学の場だけではありませんでした。

多くの荘園を所有し、大和国内に大きな経済基盤を持ち、僧兵や大和武士を抱えるほどの軍事力も備えていました。

鎌倉幕府や室町幕府も、大和国に守護を置くことが難しかったといわれています。興福寺は、事実上、大和国を支配するほどの力を持っていたのです。

宗教、政治、経済、軍事。

それらが一つになった興福寺は、単なる一寺院というより、一つの都市や政権に近い巨大組織だったと考えたほうが、その姿を理解しやすいかもしれません。

現在の開放的な境内からは想像しにくいのですが、かつてこの一帯には多くの堂宇や僧坊が並び、僧侶、職人、武士、商人など、大勢の人々が暮らし、働いていました。

静かな礎石の一つひとつも、かつてそこにあった巨大な都市の記憶を伝えているのでしょう。

焼失と再建を繰り返した五重塔

興福寺は、その長い歴史の中で何度も火災に見舞われています。

治承4年(1180年)の平重衡による南都焼討では、東大寺とともに多くの堂塔を焼失しました。

その後も再建と焼失を繰り返し、享保2年(1717年)の大火では、中金堂や南円堂、西金堂など、伽藍の西側を中心に大きな被害を受けました。

現在の五重塔は、応永33年(1426年)頃に再建された、室町時代の建物です。

高さは約50メートル。奈良の町を象徴する風景として、約600年にわたり守り継がれてきました。

今は塔全体が巨大な素屋根に覆われ、その姿を外から直接見ることはできません。

けれど、見えないからこそ、想像できることがあります。

何度も炎に包まれ、そのたびに再建されてきた歴史。風雨に耐えてきた木材。屋根を支える木組み。そして、修理に携わった名も知られない職人たち。

文化財は、ただ古いまま残っているのではありません。

誰かが状態を調べ、壊れた部分を直し、次の時代へ渡そうとすることで、初めて受け継がれていきます。

今の五重塔は、完成された美しさを見せる時間ではなく、次の100年、200年へ向かうための「途中の時間」に立っているのです。

東金堂と五重塔
中金堂

南円堂から始める、興福寺の歩き方

興福寺を訪れたら、南円堂から歩き始めるのがおすすめです。

南円堂は、弘仁4年(813年)、藤原冬嗣が父・内麻呂の追善のために建立したお堂です。現在は西国三十三所観音霊場の第九番札所として、多くの巡礼者が訪れます。

石段を上り、朱色の八角円堂を見上げると、まず興福寺が「祈りの場所」であることを感じられるでしょう。

ここから中金堂へ向かいます。

中金堂は、平城京遷都にともなう興福寺造営の中心となったお堂です。享保2年(1717年)の火災で焼失した後、長い間、本格的な再建ができませんでしたが、平成30年(2018年)、約300年ぶりに復元されました。

広い境内に堂々と立つ姿は、藤原氏の氏寺として栄えた興福寺の威信を、現代によみがえらせたかのようです。

中金堂から東へ進むと、東金堂と、素屋根に覆われた五重塔が見えてきます。

東金堂は、聖武天皇が叔母にあたる元正太上天皇の病気平癒を願い、建立したのが始まりとされています。

興福寺の歴史をたどっていると、この寺の根底にはいつも、誰かの回復や安らぎを願う心があることに気づきます。

権力の寺、藤原氏の寺、僧兵の寺。

そうした大きな歴史の奥には、病に伏した大切な人を思う、ごく個人的な祈りが流れているのです。

南円堂
南円堂

阿修羅像に、何と声をかけますか

東金堂から国宝館へ向かうと、興福寺に伝わる数々の仏像に出会えます。

なかでも多くの人を引きつけるのが、奈良時代に造られた国宝・阿修羅像です。

三つの顔と六本の腕を持ちながら、その姿には激しい戦いの神という印象よりも、迷いや悲しみを抱えた一人の少年のような静けさがあります。

正面の顔は、何かを言いたそうでありながら、言葉を飲み込んでいるようにも見えます。

どこを見ているのだろう。

何を心配しているのだろう。

そう思って見つめているうちに、いつの間にか私たちのほうが、自分の心を見つめ返しているのかもしれません。

皆さんなら、阿修羅像にどのような言葉をかけるでしょう。

「そんなに心配しなくても大丈夫」

「少し休んでもいいんだよ」

それとも、何も言わず、ただ隣に立つでしょうか。

仏像は、見る人の心によって表情を変えるともいわれます。

今日の阿修羅像がどのように見えたのか。その答えもまた、旅の大切な思い出になるでしょう。

国宝館 ここに阿修羅像がいます

見えない五重塔を、心の中に描く

国宝館を出たら、最後は奈良公園側へ歩いてみてください。

鹿が草を食む芝生の向こうに、興福寺の堂塔と、五重塔を包む巨大な素屋根が見えます。

かつて、ここには寺院、政治、経済、暮らしが一体となった大きな町がありました。

焼失した堂塔があり、再建された建物があり、礎石だけを残す場所もあります。

そして今、五重塔は次の時代へ引き継がれるため、静かに修理の時を過ごしています。

塔が見えないことを、少し残念に思う人もいるでしょう。

けれど、見えない塔を心の中に描きながら歩くことができるのは、今だけです。

興福寺は、完成された過去を眺める場所ではありません。

祈りから始まり、権勢を誇り、炎に包まれ、何度も立ち上がりながら、今もなお形を変え続けている場所です。

私たちが今日目にしているのも、1300年を超える歴史の、ほんの途中。

五重塔が再び姿を現す日、その風景は未来の誰かにとって、新しい「いつもの奈良」になっていくのでしょう。

今しか見ることのできない興福寺。

ここでは、建物だけでなく、過去から未来へゆっくりと流れていく時間そのものを、歩くことができます。五重塔は現在、約120年ぶりの大規模保存修理中で、2031年の修理完了が予定されています。



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コメント

  1. Sydney3402 より: