飛鳥・藤原の宮都とは?

奈良。時々京都。

礎石や柱穴、古墳の石室から、かつての都を想像する――。世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の全体像と、その価値をやさしくたどります。

東大寺や法隆寺のような、今も残る大きな建物を思い浮かべて「飛鳥・藤原の宮都」を訪れると、最初は少し戸惑うかもしれません。

ここには、東大寺の大仏殿のような巨大な建物も、法隆寺の五重塔のように遠くから見える目印も、ほとんど残されていないからです。

目の前に広がるのは田畑や野原。その中に、かつて建物を支えていた礎石や柱の跡、寺院の基壇、古墳の石室などが残されています。

一見すると、何もないように見えるかもしれません。

けれども、その小さな痕跡を手がかりに、かつてこの地に建っていた宮殿や寺院、そこで暮らしていた人々、そして少しずつ形づくられていった古代国家の姿を思い浮かべることができます。

それこそが、「飛鳥・藤原の宮都」という世界遺産の大きな魅力です。

「飛鳥・藤原の宮都」は、2026年7月26日、韓国・釜山で開かれた第48回世界遺産委員会において、世界文化遺産への登録が決まりました。日本で中央集権的な国家の仕組みが生まれ、整えられていった過程を伝える遺跡群として、国際的に評価されたのです。

これからこのブログでは、「飛鳥・藤原の宮都」を構成する遺跡を一つずつ訪ねていきます。

今回はその最初の一歩として、

「飛鳥・藤原の宮都とは、いったい何なのか」

という全体像を、なるべくわかりやすく整理してみたいと思います。

飛鳥・藤原の宮都は「見えない都」を訪ねる世界遺産

「飛鳥・藤原の宮都」は、奈良県の明日香村、橿原市、桜井市にまたがる、19の構成資産からなる世界遺産です。

その中には、天皇の宮殿や役所が置かれた跡、古代寺院の跡、天皇や有力者の古墳などが含まれています。

中心となる時代は、6世紀末から8世紀初めにかけてです。

飛鳥の地に宮殿が置かれていた時代から、日本で初めて計画的につくられた本格的な都である藤原京の時代まで、日本が国としての仕組みを整えていった約120年間の歩みが、この地域には残されています。

ここでおもしろいのは、世界遺産の主役が、現在も残る壮大な建築物ではないことです。

東大寺や法隆寺では、堂塔や仏像を目の前にして、その大きさや美しさに心を動かされます。

それに対して「飛鳥・藤原の宮都」では、地面に残された柱の跡や礎石、発掘調査によって明らかになった建物の配置、周囲の山や川などを手がかりに、かつての都の姿を頭の中で組み立てていきます。

いわば、目には見えない都を、想像しながら歩く世界遺産なのです。

完成した建築を見る場所ではなく、残された痕跡を読みながら、日本の始まりの風景を思い描く場所。

「見えないものを、どう見ていくのか」

その入口に立つだけでも、飛鳥はとても特別な場所だと思います。

なぜ世界遺産になったのか

「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産になった理由は、単に古い遺跡がたくさん残っているからではありません。

この地域には、日本列島に中央集権的な国家の仕組みが取り入れられ、それが少しずつ整えられていった過程を示す遺跡が、まとまって残されています。

飛鳥の時代には、天皇の宮殿が代替わりなどに合わせて移されていました。

やがて藤原京では、宮殿や役所、道路、寺院などを計画的に配置した、本格的な都がつくられます。

そこには、中国大陸や朝鮮半島から伝わった制度、仏教、建築技術、都市づくりの考え方などが取り入れられていました。

しかし、それらをそのまままねたわけではありません。

海外から学んだ文化や制度を、日本の地形や社会に合わせながら取り入れ、後の平城京や平安京へと続く国の形をつくっていったのです。

飛鳥と藤原の遺跡群は、こうした国家形成の歩みと、東アジアとの文化交流を伝えるものとして評価されました。

世界遺産としての価値は三つの分野から見えてくる

「飛鳥・藤原の宮都」の価値は、大きく三つの分野に分けると理解しやすくなります。

1.宮殿と役所――政治の仕組みが整っていく過程

一つ目は、飛鳥宮跡から藤原宮跡へと続く、宮殿や役所の遺跡です。

飛鳥宮跡には、複数の時代の宮殿跡が重なって残されています。

天皇が代わるたびに宮殿が移されることもあった飛鳥の時代から、広い都の中心に大きな宮殿と役所をまとめて置く藤原京の時代へ。

二つの地域を比べることで、日本の政治の中心が、どのように発展していったのかが見えてきます。

藤原宮跡に立つと、現在は広々とした野原が広がっています。

しかし、その地下には、かつて天皇が政治を行った大極殿や、国の仕事を担った役所の跡が眠っています。

目に見える建物はなくても、ここが日本の政治の中心だった時代が確かにあったのです。

2.寺院――仏教が国づくりと結びついていく過程

二つ目は、飛鳥寺跡、山田寺跡、大官大寺跡、本薬師寺跡などの仏教寺院の遺跡です。

飛鳥寺は、日本で最初の本格的な仏教寺院とされています。

仏教は、人々が個人として祈るためだけのものではありませんでした。

寺院を建て、仏像を造り、僧侶が教えを学ぶことは、新しい文化や知識、建築技術を取り入れることにもつながりました。

そして時代が進むにつれて、仏教は国を守り、社会を安定させるための大切な存在として扱われるようになります。

飛鳥の寺院跡をたどると、仏教がどのように受け入れられ、国づくりと結びついていったのかが見えてきます。

3.古墳――死後の世界と権力者の姿

三つ目は、石舞台古墳、天武・持統天皇陵古墳、高松塚古墳、キトラ古墳などの墳墓です。

巨大な石室を持つ石舞台古墳から、美しい壁画で知られる高松塚古墳やキトラ古墳まで、飛鳥にはさまざまな特徴を持つ古墳が残されています。

これらの古墳からは、当時の有力者がどのような力を持っていたのか、人々が死後の世界をどのように考えていたのか、さらに海外からどのような文化が伝わっていたのかを知ることができます。

時代が進むにつれて、古墳の形や大きさ、埋葬の方法も変化していきました。

その変化をたどることも、古代国家が形づくられていく流れを知る手がかりになります。

19の構成資産は三つのグループで見るとわかりやすい

「飛鳥・藤原の宮都」を構成する19の資産を、一度にすべて覚えようとすると少し大変です。

まずは、次の三つに分けて考えると、全体像がつかみやすくなります。

  1. 宮殿・役所と、それに関係する施設
  2. 仏教寺院の跡
  3. 天皇や有力者の古墳

正式な分類では、宮殿・政府施設、仏教寺院、墳墓という三つの種類から構成されています。

この三つを並べてみると、「飛鳥・藤原の宮都」が、単なる古い遺跡の集まりではないことがわかります。

政治の中心となる宮殿。

新しい思想と文化を伝えた寺院。

権力者の死や死後の世界への考え方を伝える古墳。

それぞれが別々に存在しているのではなく、互いに関係しながら、日本の国の形がつくられていったのです。

つまり、この世界遺産は、古代日本の国家形成を、政治・仏教・葬送という三つの方向から読み解くことができる、大きな歴史空間なのです。

19の構成遺産整理表 ※ 番号と資産名をセットで覚えると便利です。

番号資産名エリア種類一言で言うと
1飛鳥宮跡明日香村宮殿・官衙跡7世紀の宮殿跡、日本のはじまりの都の中枢
2飛鳥京跡苑池明日香村宮殿・官衙跡宮廷の庭園池、儀式の舞台
3飛鳥水落遺跡明日香村宮殿・官衙跡水を使った儀式の遺跡、独特の水の仕組み
4酒船石遺跡明日香村宮殿・官衙跡巨石の謎の遺構、酒造りか儀式か
5飛鳥寺跡明日香村仏教寺院跡日本最初の本格的寺院、蘇我馬子の発願
6橘寺跡明日香村仏教寺院跡聖徳太子生誕の地と伝わる寺
7山田寺跡桜井市仏教寺院跡蘇我倉山田石川麻呂の氏寺、壮大な伽藍
8川原寺跡明日香村仏教寺院跡古代の大寺、川原寺式伽藍で有名
9檜隈寺跡明日香村仏教寺院跡渡来系氏族ゆかりの寺
10石舞台古墳明日香村墳墓巨石を使った横穴式石室、蘇我馬子の墓説
11菖蒲池古墳橿原市墳墓藤原宮に近い古墳
12牽牛子塚古墳明日香村墳墓装飾古墳、壁画で有名
13藤原宮跡橿原市宮殿・官衙跡藤原京の宮殿、日本初の本格的中国式都城
14大官大寺跡明日香村・橿原市仏教寺院跡国家仏教の中心的大寺
15本薬師寺跡橿原市仏教寺院跡天武天皇発願の大寺、東大寺の前身の一つ
16天武・持統天皇陵古墳明日香村墳墓天武・持統天皇の陵
17中尾山古墳明日香村墳墓飛鳥時代の大型古墳
18キトラ古墳明日香村墳墓四神像の壁画で世界的に有名
19高松塚古墳明日香村墳墓極彩色壁画、飛鳥時代の美術の頂点

建物のない遺跡を、どう見ればおもしろいのか

「飛鳥・藤原の宮都」を楽しむために大切なのは、「何も残っていない」と考えないことです。

建物が残っていない場所にも、見るものはたくさんあります。

建物を支えた礎石。

柱が立っていた穴。

寺院の建物が並んでいた区画。

古墳の石室。

発掘調査によってわかった建物の配置。

そして、遺跡を囲む山並みや川、土地の高低差。

こうしたものを一つずつ見ていくと、現在の風景の中に、かつての都の姿が少しずつ重なって見えてきます。

例えば飛鳥寺では、現在の本堂に安置されている飛鳥大仏だけでなく、創建当時の寺院がどのように配置されていたのかにも目を向けてみます。

すると、現在の飛鳥寺よりもはるかに広い境内を持つ、大きな寺院の姿が浮かんできます。

藤原宮跡では、広い野原の向こうに大和三山を望むことができます。

耳成山、畝傍山、天香久山に囲まれた土地に立つことで、なぜこの場所に都がつくられたのかを、地図だけではなく自分の目と身体で感じられます。

古墳では、石室の構造や壁画、副葬品などを通して、当時の人々が死後の世界をどのように考えていたのかを想像できます。

現地に残るものと、資料館などに展示された出土品や復元図を合わせて見ることで、遺跡はさらにわかりやすくなります。

「目に見える遺産」と「痕跡から読み解く遺産」

東大寺や法隆寺は、現存する建築や仏像が強い存在感を放つ、いわば「目に見える遺産」です。

それに対して「飛鳥・藤原の宮都」は、地下に眠る遺構や、地上に残されたわずかな痕跡を手がかりにする遺産です。

けれども、この違いは弱みではありません。

むしろ、飛鳥・藤原ならではの魅力です。

法隆寺や東大寺が、古代の祈りや建築技術が形になった姿を見せてくれる場所だとすれば、飛鳥・藤原は、その姿に至るまでの過程を見せてくれる場所です。

宮殿が建てられ、寺院が造られ、制度が整えられ、都が計画されていく。

いわば、国の形がまだ完成していなかった時代の、試行錯誤の現場が残されているのです。

見えないからこそ想像する。

わからないからこそ調べてみる。

すると、一見何もないように見えた野原の下から、かつての宮殿や寺院、そこで生きた人々の姿が少しずつ立ち上がってきます。

日本の始まりを少しずつたどる

「飛鳥・藤原の宮都」は、一度訪れただけで、すべてがわかるような世界遺産ではないかもしれません。

19の構成資産は広い範囲に点在し、それぞれに異なる時代と物語があります。

けれども、一つずつ訪ねていくうちに、最初はばらばらに見えていた宮殿、寺院、古墳が、少しずつつながっていきます。

都と仏教がどのように結びついたのか。

海外から伝わった制度や文化を、日本はどのように取り入れたのか。

飛鳥の宮殿から藤原京へ、そして平城京や平安京へと、都づくりはどのように受け継がれていったのか。

それらが見えてくると、飛鳥・藤原は、遠い昔の遺跡ではなく、現在まで続く日本の歴史の出発点として感じられるようになります。

このブログでも、これから「飛鳥・藤原の宮都」を構成する遺跡を、一つずつ訪ねながら書いていきたいと思います。


次回は、19の構成資産の一つであり、日本で最初の本格的な仏教寺院とされる飛鳥寺を訪ねます。

現在も残る飛鳥大仏と、地中に眠る創建当時の伽藍跡。

そこから、日本に仏教が根づき始めた時代をたどってみましょう。

また、「実際にどのような順番で巡ればよいのか」を知りたい方に向けて、別記事でモデルコースと地図もまとめる予定です。

世界遺産の全体像と、現地での距離感を一緒に知ることで、飛鳥の風景がより立体的に見えてくると思います。


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